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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0507A01: り。一は松山市北京町正報寺(今正法寺に作る)な
J20_0507A02: り。學信和尚大林寺住職の頃。毎歳二月同門の僧を
J20_0507A03: 率ひて。此寺に鎭西忌を修せしと云ふ。他は溫泉郡
J20_0507A04: 久米村淨土寺なり。此寺眞言宗に屬し。栖林山三藏
J20_0507A05: 院と號し。四國八十八箇所の第四十九番札所なり。
J20_0507A06: 寺には宗祖二祖三祖各自作像を安置するが故に。亦
J20_0507A07: 三像院と號せしが(大日本地名辭書)。後に松山侯之
J20_0507A08: を其香華院たる松山大林寺に移せりと云ふ(聖光上
J20_0507A09: 人傳附錄)。要するに伊豫に於ける二祖の滯留は極
J20_0507A10: めて短時日なれば。其化迹の著大ならざりしことは想
J20_0507A11: 像するに難からず。
J20_0507A12: (二) 中國の敎化
J20_0507A13: 豫州遊化の前後は不明なるも。傳法相承の後石見
J20_0507A14: 及備後に敎化せるが如し。即宗祖發祥地たる美作を
J20_0507A15: 經て出雲大社に詣し。更に西して石見に到り。上野
J20_0507A16: 圓應寺大悲殿に詣でしに。村民之に歸依し。爲に一
J20_0507A17: 寺を創立せんと企て。地頭山野氏此擧を賛し。敷地
J20_0507B18: を寄附す。是れ大願寺なり。此寺後世安濃郡太田に
J20_0507B19: 移る。備後に於ては。二祖遺跡として傳へらるるも
J20_0507B20: の。尾道に安養寺ありしも。德川時代既に廢絶し
J20_0507B21: て。其本尊は安藝國御調郡三原町大善寺に移安せら
J20_0507B22: れたりと云ふ(聖光上人傳附錄)。想ふに石見より伊
J20_0507B23: 豫に赴く途中に於ける。休息所なりしならん歟。
J20_0507B24: (三) 筑肥の弘敷
J20_0507B25: 二祖は。前述の如く。中國及び伊豫にも遊化せし
J20_0507B26: も。其感化の廣く且つ大なりしは。其郷里たる筑前
J20_0507B27: 並に隣國筑後肥後にあり。故に鎭西聖光房。或は鎭
J20_0507B28: 西上人の號は。決して虚名に非ず。此點は宗祖並に
J20_0507B29: 三祖の敎化と趣を異にす。又豫言者は郷里に信ぜら
J20_0507B30: れずとの諺を。事實上に打消すものにして。是れ又
J20_0507B31: 以て二祖の人格を窺ふべき一事實たらずんばあら
J20_0507B32: ず。
J20_0507B33: 元久元年。歸郷に際して。二祖が何處に住し。如
J20_0507B34: 何に敎化せしかは不明なるも。其郷里香月莊は。其

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