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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0506A01: く往生の道を知るとの夢想を得たりと云ふ。
J20_0506A02: 此等の傳説は。多く本宗所傳にして。門外者は我
J20_0506A03: 田引水の證憑とせんも。選擇集と末代念佛授手印。
J20_0506A04: 念佛名義集等を熟讀對照せば。此等の傳説も決して
J20_0506A05: 妄浪虚僞の揑造説に非ず。聖光房辨阿が淨土宗第二
J20_0506A06: 祖たることに。疑議を挿むの餘地あらざるべし。
J20_0506A07: 二 二祖の弘法
J20_0506A08: (一) 伊豫の遊化
J20_0506A09: 二祖は宗要を禀承せる後。第一に伊豫に行化せる
J20_0506A10: は。諸傳の一致する所なるも。其何處より赴き。其
J20_0506A11: が何年なりしかに就きては一樣ならず。本傳には
J20_0506A12: 『建久九年到豫州勸念佛從八月至十二月道俗歸者如雲〓
J20_0506A13: 也』と。而して之を鎭西歸郷と。建久十年再上洛と
J20_0506A14: の中間に置く。又行狀畫圖四十六には。『建久九年
J20_0506A15: 八月に。上人の嚴命をうけて。豫州に下りて念佛を
J20_0506A16: すすむ。其化にしたがふものかずを知らず』と。是れ
J20_0506A17: 歸國のことを記さず。直に京都より彼地に下向し。再び
J20_0506B18: 京都に歸れりとするものの如し。本傳の傳ふる所の
J20_0506B19: 如くならば。恐らく水路乘船の都合により。彼地に
J20_0506B20: 上陸せるものにして。必ずしも宗祖の命令に非るが
J20_0506B21: 如く見ゆるも。行狀畫圖の所説によれば。後年流罪に
J20_0506B22: 處せられ。土佐の敎化を朝恩と喜ばれし。宗祖の心
J20_0506B23: 狀より推するに。四國の開敎は。宗祖が餘程注意せら
J20_0506B24: れし結果とも見るべきか。かく二傳は伊豫の敎化を
J20_0506B25: 建久九年とするも。傳法繪詞二には『弟子辨阿者。
J20_0506B26: 上人入室後。先遣伊州弘通念佛。還鎭西建立於光
J20_0506B27: 明寺。敎道一切衆生。遂往生宛如本望』(九卷傳第
J20_0506B28: 三下、十卷傳第五之に同じ)とあるを見るに。先遣
J20_0506B29: と。還鎭西と引離して考ふれば。敕傳の如く解せら
J20_0506B30: れざるに非るも。此文は決して數年を其間に置きて
J20_0506B31: 考ふべきものに非して。連續的事實と見るを穩當と
J20_0506B32: すれば。再度京都より歸國の途次のことなるが如し。
J20_0506B33: 伊豫國に於ける敎化の事蹟が。如何なりしか今知
J20_0506B34: るの材料なし。後世二祖の遺跡と稱するもの二あ

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