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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0504A01: に誕生す。父は香月氏の家臣。古川彈正左衞門則茂
J20_0504A02: 入道順乘なり。仁安三年七歳にして。州の菩提寺
J20_0504A03: (宗祖入門の菩提寺と同じく香華院の意なるべく或
J20_0504A04: は後に出る白岩寺歟)妙法法師の門に投じ。安元元
J20_0504A05: 年(開宗の年)十四歳にして登壇(壇の所在不明)受
J20_0504A06: 戒す。爾後三箇年間。同州白岩寺(香月村に在り白
J20_0504A07: 岩山勝福寺と稱し天台宗に屬す)唯心(或は云ふ唯
J20_0504A08: 心も常寂と共に明星寺住と)に從ひ。後八箇年間同
J20_0504A09: 州明星寺(嘉穗郡穗波郷に在りしも今頽廢して地名
J20_0504A10: に存するのみ)常寂に依りて。天台の宗義を學び。
J20_0504A11: 壽永二年暮。二十二歳にして比叡山に遊學す。叡山
J20_0504A12: に於ては。初め唯心の指揮に從ひ。東塔南谷の學頭
J20_0504A13: 觀叡法橋の室に宿せしが。觀叡の他國に去るに及
J20_0504A14: び。寶地房證眞の室に移る。證眞は慧檀兩流を兼學
J20_0504A15: して寶地房一流の學風を創めたる中古の明匠にし
J20_0504A16: て。宗祖に歸依篤かりし人なり。或は云ふ證眞の室
J20_0504A17: に入りしは觀叡の推薦によると(決疑鈔裏書、直牒
J20_0504B18: 一)。叡山に在住すること前後八年。建久元年學成り
J20_0504B19: 故郷に歸る。時に廿九歳なり。翌年油山(早良郡に
J20_0504B20: 在り今寺廢絶す)の學頭に補せられ。其下に學徒雲
J20_0504B21: 集せしが。建久四年某月日。舍弟三明房の卒倒せる
J20_0504B22: を見て。眼前の無常に驚き。頓に厭世の情を起し。
J20_0504B23: 遁世の意を堅くせしが。疇昔修學の地たる明星寺の
J20_0504B24: 浮圖が頽敗せしも。之を再興するに人なきを悲み。
J20_0504B25: 衆徒強ひて之が勸進の任に膺らしむ。よつて遠近に
J20_0504B26: 勸化し。又大日寺山に入りて用材を伐採す。建久八
J20_0504B27: 年終に土木の功を竣り。該塔の本尊を奉迎せんが爲
J20_0504B28: に京都に上る。是實に二祖が宗祖に謁し。門下に入
J20_0504B29: るの好機會たりしなり。
J20_0504B30: 二祖は叡山に在りて證眞門下に學びし際。證眞よ
J20_0504B31: り屢宗祖に關する物語を聞きて。窃に思慕の情を懷
J20_0504B32: き。隱遁を希望するに至り。益其情を高められし
J20_0504B33: に。這回上洛して。京極綾小路佛工の家に寓する
J20_0504B34: に及び。昔の記憶を回想し。佛像完成を待つの餘

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