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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0492A01: 京都と阿波とは尤も長く此派の流行せし所なるを知
J20_0492A02: るべし。又最須敬重繪詞五には。『又慈光寺ノ勝縁上
J20_0492A03: 人ニ對シテ一念ノ流ヲモ習學アリケリコレモ凡頓一
J20_0492A04: 乘略觀經義略料簡措心偈持玄鈔ナドイフ幸西上人ノ
J20_0492A05: 製作ユルサレニヨリテカキトリ給ケリ』とあり。勝
J20_0492A06: 縁上人とは源流章の正縁總系譜の正圓なるが如し。
J20_0492A07: 三 善慧房證空
J20_0492A08: 證空は。加賀權守親季の子にして。久我内大臣通
J20_0492A09: 親の猶子たり。治承元年十一月九日誕生す。建久元
J20_0492A10: 年四月十四歳にして宗祖の門に投じ。次で登壇出家
J20_0492A11: して解脱房證空と號せしが。後善慧房と改む。建久
J20_0492A12: 九年宗祖選擇集述作の際勘文役を命ぜられたり(密
J20_0492A13: 要決一、選擇集祕鈔一、淨土源流章)と傳ふるも。
J20_0492A14: 宗祖門下人物に乏しからず。曷ぞ特に二十二歳(源
J20_0492A15: 流章二十三とするは誤)の靑年を選び此重任を負は
J20_0492A16: しむべき。惟ふに彼門に於て其祖を高くせんとする
J20_0492A17: より出でし説に過ぎざるべく。源流章は傳説を其ま
J20_0492B18: ま記せしものに外ならざるべし。然れども彼の元久
J20_0492B19: 元年七箇條制誡文の第四位に彼れが署名せるを見れ
J20_0492B20: ば。宗祖門下に於ける彼の位地は決して輕からざり
J20_0492B21: しを知り得べし。建永二年宗祖流罪の際。彼も亦流
J20_0492B22: 罪に定められしも。無動寺前大僧正(慈圓)の辨護に
J20_0492B23: よりて配處に赴かざりしといふ戈遺古德傳七)。
J20_0492B24: 宗祖滅後に於ても。宗祖門下の頭目の一人と認め
J20_0492B25: られしと見え。念佛者追放宣狀事には。『專修念佛張
J20_0492B26: 本之事。唯佛。鏡佛。智願。定眞。圓眞。正阿彌陀
J20_0492B27: 佛。名阿彌陀佛。善慧。道辨ハ眞如堂狼籍張本也已
J20_0492B28: 上』とあり。嘉祿三年六月の法難には。彼も隆寬。幸
J20_0492B29: 西。空阿彌陀佛とともに流罪に處せらるべかりしも。
J20_0492B30: 兄叡山東塔西谷持敎房僧都が。彼の專修念佛徒に非
J20_0492B31: る由を辨じ。且つ天台六十卷の印版を開き。山門の
J20_0492B32: 流通物たらしむべき宿願ありとの事を山上に披露せ
J20_0492B33: しを以て。之を免れたりと云ふ(十卷傳十)。若し之
J20_0492B34: を事實とせば。彼の性格が。宗祖の如き。信仰に殉

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