ウィンドウを閉じる

J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0490A01: 宗祖門下にあり宗乘を修學せしが。宗祖の單信口稱
J20_0490A02: の敎訓に滿足せずして。一念の新義を主張するに至
J20_0490A03: れり。
J20_0490A04: 彼れの一念義は宗祖の敎旨を極端に推演したるも
J20_0490A05: のにして。宗祖門下にも之れに雷同する者少からざ
J20_0490A06: りしが如きも。又之に反對して辯難攻擊を加へたる
J20_0490A07: 人も多かりしが如し。或時平基親彼と一念多念の是
J20_0490A08: 非を諍論し。宗祖に其裁斷を仰ぎ。又承元三年。越
J20_0490A09: 後國に彼門弟(或は云ふ親鸞なりと)一念義を弘通せ
J20_0490A10: しに。宗祖門弟光明房も彼地にあり。彼等の説の宗
J20_0490A11: 祖の敎旨と頗る相違するを見て。當時攝津國勝尾寺
J20_0490A12: に寓居せられし宗祖の下に書を上り。一念義の眞僞
J20_0490A13: を質せしに。宗祖は其妄説たるを證し。且つ之が停
J20_0490A14: 止の起請文を賜へりと云ふ(行狀畫圖廿九)。
J20_0490A15: かく幸西が一念義を主張するを聞き。宗祖は屢彼
J20_0490A16: に訓誡を與へられしに。彼師訓に服從せず。尚ほ其
J20_0490A17: の義を骨張したるにより。宗祖は遂にわが弟子にあ
J20_0490B18: らずとて。門下を擯出せられたりと云ふ(行狀畫圖
J20_0490B19: 廿九)然れども彼が宗祖門下を擯斥せられたりとの
J20_0490B20: 傳説には考慮すべきものあり。
J20_0490B21: 何となれば。元久元年の七箇條制誡文に。幸西は
J20_0490B22: 第十五位に署名せり。故に排斥のことが假令事實と
J20_0490B23: するも。元久元年十一月以前に非らず。又建永二年
J20_0490B24: 宗祖土佐に配謫の際。彼れが阿波國に流されたりと
J20_0490B25: の説あり戈遺古德傳七)。彼の流義が宗祖滅後百年
J20_0490B26: 應長元年頃。尚波州に流行せし事實ある(淨土源流
J20_0490B27: 章)に徴すれば。此の説も強ち否定し去るべからす。
J20_0490B28: 加之宗祖滅後十六年。嘉祿三年六月に於ける法難に
J20_0490B29: は。彼は隆寬律師。空阿彌陀佛とともに。當時の念佛
J20_0490B30: 弘通の張本人として遠流に處せられ(皇帝紀抄八)成
J20_0490B31: 覺房なる僧名を改め枝重とし壹岐島配流に定められ
J20_0490B32: たり(百鍊抄十三)。或は云ふ伊豫國に流さると(十
J20_0490B33: 卷傳十)。然れども其の年十月に至るも讚岐國大手島
J20_0490B34: 邊を經囘して配處に赴かざりし(念佛者追放宣狀事)

ウィンドウを閉じる