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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0489A01: と。證空の主張と相距ること決して遠きものにあらず。
J20_0489A02: 若一念義の故を以て門下に列せずとならば。證空を
J20_0489A03: も除くべきなり。且幸西・行空・證空・親鸞の主張
J20_0489A04: は。何れも一系の上に立ちて。唯程度を異にするの
J20_0489A05: み。故に若證空を除かずとすれば。幸西。行空。親
J20_0489A06: 鸞も排す可らず。彼等を除くべしとせば。證空も門
J20_0489A07: 下に留むべからず。又幸西一系の主張が。宗祖の敎
J20_0489A08: に背反するが故に。門下に列せずとすれば。長西の
J20_0489A09: 如きも同理由により排斥せざるべからず。加〓尚此
J20_0489A10: 四流の説の宗史上より見て許すべからざるは。辨阿
J20_0489A11: を以て他の三人と同列に置くことなり。辨阿は正統第
J20_0489A12: 二祖なり豈他の三人と同一視すべけんや。故に宗祖
J20_0489A13: 門下に於て異説を唱へ。一派を樹立したる者として
J20_0489A14: は。隆寬・長西・幸西・證空・行空・親鸞の六人を
J20_0489A15: 列擧するを妥當とすべし。而も行空は其主張殆んど
J20_0489A16: 幸西と一致し一の流派と見做す程の價値なしとすれ
J20_0489A17: ば。結局宗祖門下の異流は五ありしと云ふべきなり。
J20_0489B18: 二 成覺房幸西
J20_0489B19: 幸西。族姓郷貫を詳にせず。或は云ふ物部氏と戈
J20_0489B20: 遺古德傳七)。或は云ふ平資盛遺腹の子にして江州津
J20_0489B21: 田莊津田親冬に成育せられ。津田先生權太郞親實或作
J20_0489B22: 親眞と稱せしが。後比叡山に出家して覺盛と號し。更
J20_0489B23: に成覺と改めたりと(御傳翼賛遺事)。織田系圖を見
J20_0489B24: るに。資盛の遺子に三郞權太夫親眞あるも權太郞に
J20_0489B25: 非ず。又出家のことなし。或宗脈に建曆二年彼五十歳
J20_0489B26: なりしと云ふを眞とせば。二條天皇長寬元年は其生
J20_0489B27: 年なるが如し。
J20_0489B28: 彼少壯の頃比叡山西塔南谷に住し鐘本房(或鐘下
J20_0489B29: 房カネモト房鐘月房に作る)少輔と號し。山中に於
J20_0489B30: ても聰敏の譽高かりしが。事縁にふれ厭世隱遁の情
J20_0489B31: 禁じがたく。遂に叡山を下りて宗祖の門に投じ。成
J20_0489B32: 覺房(或成覺坊成學坊淨覺法師に作る)幸西と改名
J20_0489B33: す。是彼三十六歳の時なりと云ふ。前に擧げし或宗
J20_0489B34: 脈の説によれば。建久九年選擇述作の年なり。爾來

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