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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0484A01: なびくにより。往生の近きかを問へるに對し。『あは
J20_0484A02: れなるかなや。わが往生は一切衆生のためなり。念
J20_0484A03: 佛の信をとらしめんがために。瑞相を現ずるなり』
J20_0484A04: と答へられき。二十三日。勢觀房の請により。一枚
J20_0484A05: 起請文を書き與へらる。二十五日正午。高聲念佛の
J20_0484A06: 後。安祥として入寂せらる。世壽八十歳なり。禪房
J20_0484A07: 東岸の上に窆葬す。
J20_0484A08: 滅後十六年を經て。嘉祿三年六月に至り。宗祖の
J20_0484A09: 廟所並遺弟の上に一大災厄は起れり。山門三塔大衆
J20_0484A10: は大講堂に集合し。念佛の禁止運動を決議し。先づ
J20_0484A11: 念佛の本典たる選擇集の版木を押收して之を燒毀
J20_0484A12: し。念佛の根本祖師たる宗祖の廟所を發堀して遺骸
J20_0484A13: に毀辱を加へ。念佛の巨魁三人を遠國に配流せんこと
J20_0484A14: を訴訟す。第一第三は實行することを得たるも。宗祖
J20_0484A15: の遺骸は。法蓮房。覺阿彌陀佛等。妙香院僧正と謀
J20_0484A16: 議し。廿三日夜中窃に發堀して之を嵯峨に遷し。廿
J20_0484A17: 八日の夜更に廣隆寺圓空の處に隱慝したるを以て。
J20_0484B18: 山徒の毀辱を蒙ることなく。翌年正月廿五日。粟生野
J20_0484B19: に荼毘し。貞永二年正月廿五日。正信房湛空遺骨を
J20_0484B20: 嵯峨二尊院に收め雁塔を建立す。
J20_0484B21: 宗祖滅後。念佛を停止せられ。淨土宗徒の迫害せ
J20_0484B22: られしことは(一)建保五年三月十八日。(二)同七年二月。
J20_0484B23: (三)天福二年六月晦日。(四)延應二年五月十四日。(五)正
J20_0484B24: 治二年五月十二日等一再に留らず。然れども嘉祿三
J20_0484B25: 年の如く強烈ならざりき。此時に選擇集の建曆本は
J20_0484B26: 破却せられ。隆寬律師。成覺房幸西。空阿彌陀佛等
J20_0484B27: の宗祖門下は。陸奧(後對島)壹岐薩摩等に夫夫配流
J20_0484B28: に處せられ。其他の者も洛外に放逐せられて。宗門
J20_0484B29: は非常なる打擊を蒙りしが。迫害は却て活氣を增す
J20_0484B30: 所以にして。決して信仰を撲滅すること能はざることは。
J20_0484B31: 宗門其後の運動に由りても立證せられたり。
J20_0484B32: 宗祖の遺誡。跡を一廟に占むるの不可なりしにも
J20_0484B33: 拘らず。遺弟末徒の知恩報德の情禁じがたく。大谷
J20_0484B34: 廟所を始として。加茂河原屋。白河禪房。粟生野等

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