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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0483A01: 存するは人の身なり。おしむといへども死するは人
J20_0483A02: のいのちなり。なんぞかならずしもところによらん
J20_0483A03: や。しかのみならず。念佛の興行洛陽にして年ひさ
J20_0483A04: し。邊鄙におもむきて田夫野人をすすめんこと。年來
J20_0483A05: の本意なり。しかれども時いたらずして素意いまだ
J20_0483A06: はたさず。いま事の縁によりて年來の本意を遂んこと。
J20_0483A07: すこぶる朝恩ともいふべし」とて。配處に赴くこと恰
J20_0483A08: も家郷に歸るが如く樂邦に往くが如くなりき。斯て
J20_0483A09: 度牒を召上げられ。俗名を賜ひ。三月十六日。京
J20_0483A10: 都を出で鳥羽南門より川船にて攝津經島(兵庫北濱
J20_0483A11: 地)に至り。播磨國高砂浦。同國室泊等を經て。同
J20_0483A12: 月廿六日。讚岐國鹽飽島に著し。遂に同國子松庄に
J20_0483A13: 落居せらる。讚岐に在りて弘法大師の遺跡等を遍歷
J20_0483A14: し。施化利生せられしも。而も土佐國に赴かれざり
J20_0483A15: き。
J20_0483A16: 讚岐在住數ケ月にして遠流を赦免せられたるも。
J20_0483A17: 京洛に入るを許されざりしかば。暫く攝津國勝尾寺
J20_0483B18: に假寓せられき。勝尾寺に在りては。寺僧に法衣を
J20_0483B19: 供養し。又一切經を寄附せられたる等の事あり。勝
J20_0483B20: 尾寺在住五年に及びしが。建曆元年十一月十七日。
J20_0483B21: 歸洛の許可あり。同廿六日。漸く歸洛せられたるも。
J20_0483B22: 吉水の三坊。小松殿の菴室も。最早膝を容るに堪え
J20_0483B23: ざりしと見え。靑蓮院の慈鎭和尚の好意に依り。大
J20_0483B24: 谷禪房に歸住せられたり。大谷禪房は即今知恩院勢
J20_0483B25: 至堂の所在地なり。
J20_0483B26: (五) 入滅遺跡諡號
J20_0483B27: 建曆二年正月二日。平素不食の所勞(冑病か)增進
J20_0483B28: し病褥の人となられたり。同三日。弟子法蓮房滅後
J20_0483B29: 遺跡を何處に定むべきやを問ふ。宗祖之に答へて。
J20_0483B30: 「跡を一廟に占むれば遺法遍からず。予が遺跡は諸
J20_0483B31: 州に遍滿すべし。ゆへいかんとなれば。念佛の興行
J20_0483B32: は愚老一期の勸化也。されば念佛を修せん所は。貴
J20_0483B33: 賤を論ぜず。海人漁人がとまやまでも。みなこれ予
J20_0483B34: が遺跡なるべし」と。二十日。門弟坊の上に紫雲た

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