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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0477A01: 宗祖が。一切經を翻讀せられたるは前後五回に及
J20_0477A02: べりと傳ふ。一切經と共に支那日本に於ける人師の
J20_0477A03: 章疏。就中淨土敎に關する章疏は。數回乃至十數回
J20_0477A04: 熟讀せられたるや言ふまでもなし。此等章疏の中。
J20_0477A05: 宗祖が特に最精讀深究せられたるは慧心僧都の往生
J20_0477A06: 要集なりき。這は當時。就中叡山山上に於ける求道
J20_0477A07: 者の採れる一般の針路なるか。宗祖は要集によりて
J20_0477A08: 善導觀經疏の其途に於て重大なる價値を有すること
J20_0477A09: を指唆せられ。進て同疏を熟讀翫味せられたり。此
J20_0477A10: 書の指示する所は。實に宗祖が多年夢寐にも追求し
J20_0477A11: て忘れられざりし所と吻合し。此に捨聖歸淨の大決
J20_0477A12: 心を得て。專修一行の專傳を始められたり。是れ實
J20_0477A13: に承安五年春三月。宗祖四十三歳の時のことにして。
J20_0477A14: これを宗祖生涯の第三轉機となす。
J20_0477A15: (二) 宣法敎化
J20_0477A16: 宗祖。專修一行の門に入りてより間もなく叡山を
J20_0477A17: 降りて。初は西山廣谷(粟生光明寺山後にあたると
J20_0477B18: 云ふ)に住し。次で東山吉水(今知恩院の墳域の内
J20_0477B19: に屬す)に移り。吉水には中ノ房。西ノ本房。東ノ新房等
J20_0477B20: 所を替へ。建久年中小松殿(今小松谷松林寺の所在
J20_0477B21: 地)に住し。其他白河禪房。加茂河原屋等諸處に寓
J20_0477B22: 居せられたるも。其居處は孰れも狹隘粗朴なる草菴
J20_0477B23: にして。此處に二三の常隨給仕の弟子と共に。一向
J20_0477B24: に念佛し自行薰修に餘念なかりしも。其聲を聞き德
J20_0477B25: を慕ひ來り集る。道俗の爲には諄諄として自證の法
J20_0477B26: 門を語り。其人をして自己の信仰に共鳴せしめずん
J20_0477B27: ば休まず。故に淨土の一門數年を出でざるに都鄙に
J20_0477B28: 遍く。念佛の聲幾ならざるに邊隅に充ちぬ。
J20_0477B29: かくの如く。宗祖一代の敎化は。多く京都及其近
J20_0477B30: 郊に於ける草菴に行はれ。其方法も甚消極的なりし
J20_0477B31: も。稀には請に應じて寺院に説法し。或は個人の邸
J20_0477B32: 宅に赴き法話せられたることなきにあらず。文治二
J20_0477B33: 年秋。比叡山の顯眞法印發起となり。南都北嶺の求
J20_0477B34: 道者數十人。大原勝林院に會し。宗祖を請じて淨土

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