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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0475A01: し自の菩提を求め。兼て父の冥福を祈るべきを遺囑
J20_0475A02: す。是上人生涯の第一轉機なり。
J20_0475A03: 同年冬。同國菩提寺觀覺得業の室に入る。得業は
J20_0475A04: 母秦氏の弟にして。曾て延曆寺の學徒なりしも。後南
J20_0475A05: 都に移り法相宗に入りて得業を得たる人。得業指導
J20_0475A06: の下に。内外典籍を稽古すること七年の後。得業の指
J20_0475A07: 揮により慈母と離れて比叡山に登ることとなりぬ。
J20_0475A08: 時に久安三年春二月上人十五歳(或は久安元年十三
J20_0475A09: 歳といひ或は久安二年十四歳といふ)の年なりき。
J20_0475A10: 比叡山に於て最初得業が依托したる師主は西塔北谷
J20_0475A11: 持寶房源光なりき。源光は又當時叡山に於て明匠の
J20_0475A12: 評高かりし功德院の肥後阿闍梨皇圓に之が敎育を委
J20_0475A13: 托す。皇圓は椙生皇覺の法嗣にして台學に精通し。
J20_0475A14: 扶桑略記の作者として史文に堪能なる學者たりし上
J20_0475A15: に。殊勝なる道心を有せし人なるが如し。彼の龍華
J20_0475A16: 三會の敎化に逢遭せんとして。遠江國櫻池に沈み蛇
J20_0475A17: 身となりしとの傳説の如き。其決して輕薄なる人に
J20_0475B18: 非ざりしを想はしむ。故に其宗祖に及せる感化も少
J20_0475B19: からざりしなるべし。同年冬十一月八日戒壇院に登
J20_0475B20: りて圓頓戒を受く(或傳には其際の出家名は圓明房
J20_0475B21: 善弘なりしと云ふ)。爾後皇圓の下にありて。天台三
J20_0475B22: 大部を受學すること三年なりしが。久安六年九月十
J20_0475B23: 二日皇圓の座下を辭し。山門大衆の交際を謝して。
J20_0475B24: 黑谷慈眼房叡空の室に隱遁す。是實に上人生涯の第
J20_0475B25: 二轉機也。
J20_0475B26: 黑谷隱遁の理由は。諸傳多く宗祖の天性求道心強
J20_0475B27: かりしと。此傾向を一層強からしめたる保延七年の
J20_0475B28: 家庭の慘事と。其際に於ける嚴父の訓誡とにありと
J20_0475B29: す。勿論此等は其主因たりしに相違なきも。當時比
J20_0475B30: 叡山に澎湃せる墮落腐敗の僧風。如上の理由に基け
J20_0475B31: る上人の求道心と背馳し。郷里に於て畫かれたる比
J20_0475B32: 叡山と。現實の比叡山とが。雲泥の間隔あるを發見
J20_0475B33: して失望せられたるも。又其理由たらずんばあらず。
J20_0475B34: 故に宗祖は受戒後間もなく隱遁の意志を皇圓に語ら

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