ウィンドウを閉じる

J3020 清浄華院誌要 清浄華院編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0345A01: 時に紺地金襽の大衣及菊御紋を賜ふ當院住職は宗祖
J20_0345A02: の行狀に準し黑衣なりしに此時より香衣を常着する
J20_0345A03: 事となれり又代代の住職入院の儀式としては住職は
J20_0345A04: 勅請の綸旨を拜受し紫衣を其都度勅許せられ當日午
J20_0345A05: 前に晋山の式を行ひ午後手輿に乘て參内し 天恩を
J20_0345A06: 謝するを定規とせり應仁元年九月十三日細川勝元を
J20_0345A07: 首領とし京極持淸等出雲飛驒近江の軍勢三萬餘騎を
J20_0345A08: 率て當院境内に陣を張る山名宗全は大内政弘六角高
J20_0345A09: 賴一色義直土岐成賴等の大軍を以て押寄せ細川勢を
J20_0345A10: 燒攻にしければ猛火熾にして堂舍佛閣一時に燒失し
J20_0345A11: 住職を始め僧俗卅六人之に死す法光明院白蓮社悟眞
J20_0345A12: 寺華開院十二光院蓮花堂等の門末八十四所悉く赤土
J20_0345A13: となれり其後火災を遁れたる者四方より還り來て僅
J20_0345A14: に草房を結び法務を修行せしに東西兩陣未た雌雄を
J20_0345A15: 决せざりければ戰亂止まず再び山名の軍勢俄に襲ひ
J20_0345A16: 來り四方を取圍み假屋に放火し暴惡を極め一人も免
J20_0345A17: さず僧俗七十餘人悉く燒殺せらる其後は住僧一名も
J20_0345B18: 無く暫時空地となれり其後十五年を經て文明十五年
J20_0345B19: 十二月より堂宇再建に著手し同十九年落成す貞元年
J20_0345B20: 中より文明十九年迄五百餘年間に 皇室より堂宇御
J20_0345B21: 再建又御修繕の事あれども數回の火災にて記錄燒失
J20_0345B22: せし故に細大知り難し文明十九年より凡百年を經て
J20_0345B23: 天正年中豐太閤京都市中の寺院を悉く市外今の寺町に轉
J20_0345B24: 地せしむ當院も創立より七百年間御所御構内にあり
J20_0345B25: しに此時現今の地に移され其後は御葬儀吊祭等御菩
J20_0345B26: 提所の法務を兼修するに至れり慶長十六年より文久
J20_0345B27: 二年迄凡二百五十年間に敬法門院靈元天皇皇妃東山天皇御母開明門
J20_0345B28: 櫻町天皇皇妃桃園天皇御母御二方憲子内親王勝子内親王皇妃皇子
J20_0345B29: 皇女合て卅一方御入棺あり御葬式御中陰法要御年忌
J20_0345B30: 回向勅會御法事等の奉修並に御陵墓の奉仕當院に於
J20_0345B31: て之を掌れり明治維新の後御陵墓の奉仕は宮内省諸
J20_0345B32: 陵寮に移り尊牌等一時泉山に遷座せられしも舊來の
J20_0345B33: 由緖により再び當院に御復歸從來の如く 淸和 村
J20_0345B34: 上兩天皇の尊像 東山光格仁孝 孝明各天皇の尊

ウィンドウを閉じる