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J2910 生実大巌寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0074A01: 士客殿の前に天照皇大神等を勸請し本堂方丈庫裏山
J20_0074A02: 門鐘樓等並學寮四十餘宇を建並べ寺領七十貫を附せ
J20_0074A03: らる境内林中に大澤ありて古より龍澤と名く故に當
J20_0074A04: 寺を龍澤道塲と名け終に山號とせり
J20_0074A05: 當寺の譜錄には後弘治始師增上寺杲譽上人の附屬
J20_0074A06: によりて增上寺に移住する事九年時に安譽雲潮入
J20_0074A07: 室の事有てのち又安譽堂閣をつくり道譽生實に再
J20_0074A08: 住歸山永祿三年也とあり案るに夫人の招見弘治に
J20_0074A09: て天文の末にありて此山を開き假堂にて建法幢あ
J20_0074A10: りける時杲譽の附屬傳燈の師職の讓與によりて一
J20_0074A11: 旦縁山に住し學徒敎諭の間安譽に命し伽藍造立せ
J20_0074A12: しめ落成の上再ひ彼山を辭し此山に還住し夫人の
J20_0074A13: 約に違はず所化を領し叢林とせられし成べし又京
J20_0074A14: 稱名寺の記には彼の寺永祿三年開基とあれど龍澤
J20_0074A15: 始の起立同年なればいかがなるべきや愚案には天
J20_0074A16: 文十三年に稱名寺をひらき永祿三に當山の開創有
J20_0074A17: しならんか又當山の譜錄正史とすべけれど此事の
J20_0074B18: みならず外にもいろいろと少しく異紛なきにはあ
J20_0074B19: らず又師の傳の所も殊に詳ならず疑ふ事ともまま
J20_0074B20: あり既に靈巖上人は駿州沼津の産なるを安房國里
J20_0074B21: 見氏としるせるなとは大成謬也里見氏の歸敬を受
J20_0074B22: られし事を産氏とおもへる如きの差あれは師の年
J20_0074B23: 月日何れと定むべからず是後世に書しるせる者な
J20_0074B24: れば多くは惣系譜などによりし故なり下是に傚ふ
J20_0074B25: 又稱名寺は弘治三年にて師增上寺住職の内上京參内等ありて其時に開基ありしもしるべからず然とも是又今のごとく增上寺も大山
J20_0074B26: ならざれば綸旨拜受在京逗留の時成べし
J20_0074B27: 永祿十一年八月夫人落飾し銅像の彌陀を師に捧け是
J20_0074B28: 閨中の持尊なり此尊にむかひて後世の冥福を祈り給
J20_0074B29: へと布施せらるこの時即ち盈譽利貞禪尼後追號瑞雲院盈譽龍澤利貞
J20_0074B30: と授名あり同年利貞尼九月七日正念往生あり遺骸
J20_0074B31: を當山の堂右の岳上に收め墳墓を築き碑を立是より
J20_0074B32: 胤榮いよいよ師を信敬ありしとぞ上總國宮原御所師
J20_0074B33: の道德を常常遙慕の上當山起立開創の事を聞達せら
J20_0074B34: れ師をまねきて法要をとかしめ圓頓の戒をうけて歸

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