浄土宗全書を検索する
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巻_頁段行 | 本文 |
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J19_0802A01: | 又云栗原次郞後下總守義長眞瀨に歸り首實驗す甲首七 |
J19_0802A02: | 百餘級雜兵數不知夫より離山の下より船に乘水海 |
J19_0802A03: | 道邊へ發向す岡見土岐由良月岡等福岡を立水海道 |
J19_0802A04: | に向五木田瀧川より告るは秋葉縫殿介二千騎川表 |
J19_0802A05: | に並射掛る豐島紀伊守天田小林荒木小船に乘報國 |
J19_0802A06: | 寺の下に漕寄火をかけて攻ければ秋葉明神の前に |
J19_0802A07: | 引たり由良信濃守千餘騎報國寺廣庭に攻入多賀谷 |
J19_0802A08: | 左近太夫石毛豐前打て出妨戰けるが本堂に火燃上 |
J19_0802A09: | り左近太夫飯沼に引退く弘經寺大衆の中東谷聖文 |
J19_0802A10: | 坊西谷理典坊北谷快山坊打て出快山長刀にて下山十 |
J19_0802A11: | 郞が馬を薙落る所を首を取上田七郞右衞門は理典 |
J19_0802A12: | に討れ大館新八も快山に討れける快山は鐵砲に當 |
J19_0802A13: | りて死理典は由良殿の矢に中り死す殘兵迯散たり |
J19_0802A14: | 中略多賀谷弘經寺に楯籠を取卷月岡玄蕃唯越善休 |
J19_0802A15: | 一番に還り戰土岐伊豫守七百餘騎搦手より火を掛 |
J19_0802A16: | 大門へ燃付所に雷雨頻にて互に晴間を待たり下略 |
J19_0802A17: | 僅かに三門棟木の柱のみ燒殘今に薰り痕あり此時住山の學徒 |
J19_0802B18: | 諸方に逃散し住持存把は結城へ當所より九里立退く故に夫 |
J19_0802B19: | より後暫當山は無住となる仍て檀林の 繩廢絶に及 |
J19_0802B20: | へり |
J19_0802B21: | 存把上人は下妻の多賀谷氏かねて師檀の約あり殊 |
J19_0802B22: | に味方となりて寺を陣所とせしより燒亡ありしか |
J19_0802B23: | は彼城下なる下妻へまねかれ住栖せしめらる其後 |
J19_0802B24: | 中島村に故ありてうつられ一心に般舟淸業を增進 |
J19_0802B25: | ありしに文祿三年午十一月結城中納言秀康卿長女 |
J19_0802B26: | 早世させられし時結城家は代代曹洞宗なりと云へ |
J19_0802B27: | ども御實家御代代御宗門たるにより存把上人へ |
J19_0802B28: | 導師を賴ませられ其上別に一寺建立させられしか |
J19_0802B29: | は上人當寺の退廢を引移され弘經寺と名らる委しくは |
J19_0802B30: | 彼寺の所に出す是より上人彼地の弘經寺にととまり當山へ |
J19_0802B31: | は歸山せす |
J19_0802B32: | 其後舊住の學徒等追追立歸り開山の舊跡頽廢を歎き |
J19_0802B33: | 再興の爲とて小金東漸寺住持照譽了學上人は法德無 |
J19_0802B34: | 双の聞へ高かりしかは請待し十世と仰ぐ學公はもと |