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J2870 飯沼弘経寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0802A01: 又云栗原次郞後下總守義長眞瀨に歸り首實驗す甲首七
J19_0802A02: 百餘級雜兵數不知夫より離山の下より船に乘水海
J19_0802A03: 道邊へ發向す岡見土岐由良月岡等福岡を立水海道
J19_0802A04: に向五木田瀧川より告るは秋葉縫殿介二千騎川表
J19_0802A05: に並射掛る豐島紀伊守天田小林荒木小船に乘報國
J19_0802A06: 寺の下に漕寄火をかけて攻ければ秋葉明神の前に
J19_0802A07: 引たり由良信濃守千餘騎報國寺廣庭に攻入多賀谷
J19_0802A08: 左近太夫石毛豐前打て出妨戰けるが本堂に火燃上
J19_0802A09: り左近太夫飯沼に引退く弘經寺大衆の中東谷聖文
J19_0802A10: 西谷理典坊北谷快山坊打て出快山長刀にて下山十
J19_0802A11: 郞が馬を薙落る所を首を取上田七郞右衞門は理典
J19_0802A12: に討れ大館新八も快山に討れける快山は鐵砲に當
J19_0802A13: りて死理典は由良殿の矢に中り死す殘兵迯散たり
J19_0802A14: 中略多賀谷弘經寺に楯籠を取卷月岡玄蕃唯越善休
J19_0802A15: 一番に還り戰土岐伊豫守七百餘騎搦手より火を掛
J19_0802A16: 大門へ燃付所に雷雨頻にて互に晴間を待たり下略
J19_0802A17: 僅かに三門棟木の柱のみ燒殘今に薰り痕あり此時住山の學徒
J19_0802B18: 諸方に逃散し住持存把は結城へ當所より九里立退く故に夫
J19_0802B19: より後暫當山は無住となる仍て檀林の 繩廢絶に及
J19_0802B20: へり
J19_0802B21: 存把上人は下妻の多賀谷氏かねて師檀の約あり殊
J19_0802B22: に味方となりて寺を陣所とせしより燒亡ありしか
J19_0802B23: は彼城下なる下妻へまねかれ住栖せしめらる其後
J19_0802B24: 中島村に故ありてうつられ一心に般舟淸業を增進
J19_0802B25: ありしに文祿三年午十一月結城中納言秀康卿長女
J19_0802B26: 早世させられし時結城家は代代曹洞宗なりと云へ
J19_0802B27: ども御實家御代代御宗門たるにより存把上人へ
J19_0802B28: 導師を賴ませられ其上別に一寺建立させられしか
J19_0802B29: は上人當寺の退廢を引移され弘經寺と名らる委しくは
J19_0802B30: 彼寺の所に出す是より上人彼地の弘經寺にととまり當山へ
J19_0802B31: は歸山せす
J19_0802B32: 其後舊住の學徒等追追立歸り開山の舊跡頽廢を歎き
J19_0802B33: 再興の爲とて小金東漸寺住持照譽了學上人は法德無
J19_0802B34: 双の聞へ高かりしかは請待し十世と仰ぐ學公はもと

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