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J2840 鎌倉光明寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0646A01: かりしかば法衣の上へ忽ち法釼を帶し甲胄を着して
J19_0646A02: 文をかたはらにして武を專とせしかどさすが戒をす
J19_0646A03: て歸俗の思は更になかりしかは法體のままにて吉野
J19_0646A04: に參り始は新田源君に仕へたりしかど後には楠和田
J19_0646A05: に談し又は千種中將殿洞院左衞門督殿などどともに
J19_0646A06: 偏に花洛恢復の策籌をなせしかど其甲斐なかりしか
J19_0646A07: ば延文年中征西將軍の宮にしたがひ肥後國に下り菊
J19_0646A08: 地肥後守とともに軍兵を起す菊地少貳と一戰の時肥
J19_0646A09: 前にわたり暫く住しければ三根郡船石村に船石山淨
J19_0646A10: 池院西蓮寺を開基す
J19_0646A11: 寺記云此のち寺門頗る廢絶に及ひなんとせしかば
J19_0646A12: 筑後國山本郷善導寺十八世增蓮社辨譽上人永享三
J19_0646A13: 年再興し寺を伊勢町の大覺寺に屬せしむと云云
J19_0646A14: 其後は世の非常をさとり再ひ念死念佛の功をかさね
J19_0646A15: 正中年中寂す
J19_0646A16: ○隨譽順如は光明寺四世良順弟子なり多年自山に貫
J19_0646A17: 練群籍し無上道心ことに深し應安元年越中立山參詣
J19_0646B18: 時富山智光山西養寺を中興し五智院を改號す
J19_0646B19: 寺記云當寺開山は立山開山藥勢上人なり大寶元丑
J19_0646B20: 開登し當寺は一乘谷五智院と名け倶舍宗也其のち
J19_0646B21: 佐伯有賴菩提所と定め立山奧院とも云惠心僧都筆
J19_0646B22: 則ち立山七峰本佛七尊繪像今に在り
J19_0646B23: 應安六年七月晦日沒後住順長は康應元年當寺に寂
J19_0646B24: ○諦蓮社聽譽岌纂は阿波國人始藤田流を汲後天照山
J19_0646B25: に掛錫し後本國に歸り板野郡勝瑞に淸瀧山淨智寺を
J19_0646B26: 建立享祿四年二月十八日沒七十二才と云
J19_0646B27: 寺記云天文十八年名東郡德島に引移莊嚴院と加號
J19_0646B28: す慶長十九年燒失の時過去帳由緖書燒失故すべて
J19_0646B29: 詳ならず
J19_0646B30: ○天蓮社龍譽了公は鎌倉人權田左衞門尉友重か三男
J19_0646B31: 光明寺十四世長譽弟子附法後諸國修行に出慶長十卯
J19_0646B32: 年泉堺にて印傳山大善寺又同所に榮正寺を起立し寬
J19_0646B33: 永六巳年十一月四日化
J19_0646B34: ○心蓮社深譽江月は鎌倉人光明寺に止住在學し後永

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