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J2840 鎌倉光明寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0642A01: の弟子として光明寺に修學し在山熟習兩脉既受のの
J19_0642A02: ち大永元年三河國より甲斐國湯島へ湯治の時信虎師
J19_0642A03: の道德を聞て城内に招入せしめ説法慇聞あり殊勝に
J19_0642A04: 思入崇敬し居城内に精舍を建立し源正院と名く祈願
J19_0642A05: 所として又先祖の回向所とす
J19_0642A06: 寺記云此時信濃國善光寺の後ろ本尊善導大師筆一
J19_0642A07: 光三尊眞向の如來を被下其外種種寶物を被下と云
J19_0642A08: 其後子息の男子早逝ありしかば辨譽導師として尊體
J19_0642A09: 大童子と名く天文二巳年晴信朝臣の舅轉法輪三條殿
J19_0642A10: の奏によりて功德院の勅額を賜へり天正十年東照宮
J19_0642A11: 甲州御打入新府御座の時當寺は信虎居城内要害能其
J19_0642A12: 上治國利民の本尊安置の旨聞し召され御使を立られ
J19_0642A13: しかば時の住持然譽御迎として八月當寺へ入御し給
J19_0642A14: ひ武田の一族を召出され御扶持を加へられ其外國政
J19_0642A15: を定めさせらる又本尊へ天下安全鎭護國家の御祈願
J19_0642A16: 被遊本堂を建立仰付被下翌未正月一説三月迄御逗留それ
J19_0642A17: より遠州濱松へ還御也翌天正十一未年三月又甲府へ
J19_0642B18: 御入當寺へ御逗留當寺より信州佐久郡迄の畵圖仰付
J19_0642B19: られいよいよ天下泰平の御祈誓御武運長久御祈被遊
J19_0642B20: 此時佛供料として七石二斗御寄附翌申年下府中へ境
J19_0642B21: 内を移仰付られ古府中は隱居所屋敷に被成下 已上
J19_0642B22: 尊體寺記
J19_0642B23: 同所大宮山一行院誓願寺記云辨譽大永元年古府中
J19_0642B24: 成島氏の宅へ一宿成島氏信心發起故逗留しかるに
J19_0642B25: 信虎被爲召御歸依僧となり古府中にて當寺御造立
J19_0642B26: 其のち尊體寺へ移開す下略
J19_0642B27: ○信蓮社深譽全貞は縁山に至り國師に隨身給仕す國
J19_0642B28: 師又其性の柔順默直を解し弟子とせらる天正十三酉
J19_0642B29: 年本國に歸り郡内下谷村にて古今山稱名院西凉寺を
J19_0642B30: ひらく又鎌倉に入て附法相承す元和二辰年化
J19_0642B31: ○眼譽呑屋は甲斐國人幼にして國府敎安寺七世寂譽
J19_0642B32: 弟子
J19_0642B33: 寂譽は高岳院殿の御導師つとめしにより親吉當國
J19_0642B34: 拜受の時當國に移り後尾張義直卿御住國の時別に

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