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J2840 鎌倉光明寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0641A01: 四日寂
J19_0641A02: ○相蓮社傳譽團哲欣求は仙臺人なり光明寺に入り剃
J19_0641A03: 髮並修學し居る事十五年一宗の秘决禀受の上利他の
J19_0641A04: ため諸國行脚せし時播磨國姬路に至り光明寺をひら
J19_0641A05: き暫く住慶長年中大坂に來りて鹽町に孤峯山龍澤院
J19_0641A06: 光明寺を開基寬永十九年九月十二日化す
J19_0641A07: ○三蓮社縁譽知傳は攝州人山田氏但馬國朝來郡生野
J19_0641A08: 銀山の東恩寺迎譽弟子鎌倉に止學傳法し化他のため
J19_0641A09: 寬文五年上總國に渡り天羽郡吉野大和田村に南光山
J19_0641A10: 阿彌陀寺を立後歸國し生野銀山にて銀泉山善谷寺を
J19_0641A11: 創立し次に同所猪野村階元寺を創立し又銀山に懸日
J19_0641A12: 山玉翁院東照寺を建立し
J19_0641A13: 元和二年十月十七日東照宮の尊牌安置寺號とす
J19_0641A14: 東照額は持明院大納言筆懸日額知恩院宮良純法親
J19_0641A15: 王御筆と云
J19_0641A16: 住する事三十餘年又氣多郡中郷村に旦獨山淨嚴寺を
J19_0641A17: 基興し一旦兵庫に隱栖し正保三年六月二十七日東照
J19_0641B18: 寺に化八十四才
J19_0641B19: ○叡譽智了は三河國奧平人相模國鎌倉光明寺法譽智
J19_0641B20: 聰弟子修學功なりてのち小田原大蓮寺に住持す天正
J19_0641B21: 十子年江州甲賀郡水口城主中村式部少輔城西境内に
J19_0641B22: て二丁四方の新地を以て淨慶寺を起立し師を請し開
J19_0641B23: 山とす關原後東照宮御上洛の時西面の上山へ御登此
J19_0641B24: 地上覽其節家松山大德寺とあらためさせられ長野内
J19_0641B25: 藏丞に命し釣鐘を鑄させ御寄附あり慶長十巳年二月
J19_0641B26: 十九日歿八十六才慶安二年八月十七日右の事ども言
J19_0641B27: 上しければ御朱印成下さる
J19_0641B28: ○源蓮社洪譽岌眞隆恕は光明寺に修學在山し八九年
J19_0641B29: ののち學行殊勝の名ありて本國三河に歸り二利説法
J19_0641B30: の頃同國西尾城主本多縫殿助康俊歸依せしより梅香
J19_0641B31: 山縁心寺を開創の時師を開山とす慶長十巳年四月二
J19_0641B32: 十八日寂すそののち本多氏加封增石により近江國膳
J19_0641B33: 所に移らるる時當寺又彼地に移隨あり
J19_0641B34: ○忠蓮社辨譽正印は三河國吉良の人大樹寺勢譽上人

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