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J2840 鎌倉光明寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0640A01: 建安置ありしを文安年中淸智法師ここに住み元龜
J19_0640A02: 三年越智玄蕃頭家秀が家司來田隱岐菩提所として石碑
J19_0640A03: 今にあり再興ありしに文祿年中御牧勘兵衞撿地の時寺領
J19_0640A04: 山林ことことく收公となり寺中やうやく方一丁赦免
J19_0640A05: のむね聞えければ重信護法再興のため慶長七年是に
J19_0640A06: うつり中興の鴻業を成就す元和八年三月圓寂年七十
J19_0640A07: 八歳
J19_0640A08: ○大譽岌天は越中の人天文二年光明寺に至り修學法
J19_0640A09: 問開講に列し同十五年歸國弘治元年椎名右衞門尉松
J19_0640A10: 倉落城の時請により金谷山大泉寺を開基す落城のの
J19_0640A11: ち魚津に寺を引き永祿二年三月朔日化
J19_0640A12: ○光然良明上人は信濃宮と申奉り後醍醐天皇の御子
J19_0640A13: なり御連枝或は討れさせあるひは入釋したまひし中
J19_0640A14: に越中宮佛眼明心法親王とともに時宗の門に入り他
J19_0640A15: 阿眞敎の弟子となり給ひ諸國を巡り給ひし時此上人
J19_0640A16: はひそかに光明寺に入寂惠良曉上人をとひ宗要をと
J19_0640A17: はせたまへり此時良明と號をささげけるそののち延
J19_0640B18: 文五年越中國氷見に於て孝德山子見堂西念寺を開創
J19_0640B19: したまへり貞治元年十一月七日御入滅
J19_0640B20: ○專譽念超は永正十一年光明寺にて修學し後能登國
J19_0640B21: に越天文五年眞脇村にて行基山松壽院新善光寺を再
J19_0640B22: 興あり
J19_0640B23: 寺記云當寺は行基菩薩廻國の時一光三尊一尺五寸木佛
J19_0640B24: を草庵に籠置給へり壽永中能登守敎經の妹松壽姬
J19_0640B25: 一族討死ののち勝如比丘尼となり此庵に遁れ來り
J19_0640B26: すみて天命を保ち尼寺となせしより世世尼すみけ
J19_0640B27: るを專譽再興せりと
J19_0640B28: ○翁蓮社岌鎭は越後國人大澤圓通寺に修學し又當山
J19_0640B29: に來住して法問講釋に出席研覈す天文中歸國魚沼郡
J19_0640B30: 鹽澤村に信受山果號院長恩寺を建立再興す
J19_0640B31: 當寺始延文五年なり始奧州にありて次に竹俣へ引
J19_0640B32: 又今の所へ再興す此節五十石寺領ありしを三世岌
J19_0640B33: 善同國高田長恩寺を開基の時かの寺へ寄附となる
J19_0640B34: 其後六日市村に信受山滿藏寺を立永祿三年正月二十

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