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J2840 鎌倉光明寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0639A01: かの二匠にありて師の英才をしるものなし同十四戌
J19_0639A02: 年二月十八日寂す六十九歳
J19_0639A03: ○照蓮社光譽春古は伊勢人天野氏堺專修寺玄譽弟子
J19_0639A04: となり
J19_0639A05: 玄譽永徹は宇治平等院中興京二條專稱寺泉州助松
J19_0639A06: 專稱寺堺西向寺同所專稱寺等開起す
J19_0639A07: 光明寺にいりて修學十餘年文祿二年堺に歸りて煙雲
J19_0639A08: 山龍門寺をひらく慶長四年十一月二十一日寂
J19_0639A09: ○專蓮社靈譽良三は大和國櫻井村人布施氏子幼年に
J19_0639A10: て當麻奧院に剃度すひととなり慈仁溫和にして人と
J19_0639A11: 爭はず人の愁悲を見聞するごとに悲歎骨髓にいれり
J19_0639A12: 光明寺に入て學する事十一ケ年のち鎌倉記には三蓮社と有歸國し
J19_0639A13: 當國大守大納言秀長卿のとき添上郡廣岡村のほとり
J19_0639A14: に犯罪の輩の殺害仕置塲あり其所に二間四方の堂あ
J19_0639A15: りて長七尺の石像地藏菩薩を安置あり天正年中此邊
J19_0639A16: に於て庵を結び晝夜勇猛に念佛修行しかの亡魂得脱
J19_0639A17: を弔はる度度謝禮の夢を感し解脱せし恩を現示せる
J19_0639B18: ものもあり弟子專譽又是につきて千日念佛修行あり
J19_0639B19: 故に道俗貴賤群集しければつひに一宇の本堂僧房を
J19_0639B20: 取たて引接山聖衆院來迎寺と名け花頂山に隷屬を乞
J19_0639B21: ひければ滿譽大僧正其德行を感賞し寺額を賜り山院
J19_0639B22: 號を加へらる靈譽天正十一年四月六日寂靜として寂
J19_0639B23: す五十八才
J19_0639B24: ○天蓮社正譽誾道は相州三浦の人同郡法藏院の弟子
J19_0639B25: となり光明寺に修學附法あり學なりてのち慶長年中
J19_0639B26: 大和國にあそび郡山に無漏山實相寺を開基し元和四
J19_0639B27: 年十二月十日死五十七才
J19_0639B28: ○蕚蓮社央譽重信は鎌倉の人天文の末光明寺の所化
J19_0639B29: となり内外の二典を涉獵す化他の志深かりしかば綸
J19_0639B30: 旨頂戴の時畿内巡遊ありしに大和國高市郡桶野村飯
J19_0639B31: 降山重信院權現寺を再興し次に市尾村石峯山金蓮院
J19_0639B32: 如來寺は弘法大師二十五三昧隨一の基寺にて彌陀大
J19_0639B33: 日の兩尊の堂閣佛塔巍然たりしに永享中軍火に燒亡
J19_0639B34: し兩尊のみ漸く火中に殘り雨露に侵され里人草堂を

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