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J2820 三縁山志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0566A01: かど其後御用地に召上られ替地として切通の上の山
J19_0566A02: にて給はり臺門前と改又富山町とあらたむ又神田に
J19_0566A03: 此町の二丁目あり
J19_0566A04: ○永井町
J19_0566A05: 大門の四丁目なり切通しへ引移りの後そのかみ門前を刑人引廻しの時國師
J19_0566A06: 慈愍のあまりそれそれ許免を願はれ貫ひ給ひしかは其比は濱道もなかりしにそつゐに御用地に召上られその跡を遠江國濱松のものにた
J19_0566A07: まへりとぞ麹屋町となづけし其此名主永井三郞兵衞名字
J19_0566A08: をとり永井町と改む寶永三年此地御用につき神田元
J19_0566A09: 誓願寺の前にて代地を給へり
J19_0566A10: ○三島町○七軒町
J19_0566A11: 門前の攝在にして由縁既に久し藏王橋より北の方に
J19_0566A12: いる
J19_0566A13: 門前は都て往年行者の支配たり今名主大久保藤兵
J19_0566A14: 衞など支配す藤兵衞は伊豆下田領主大久保下野守末子なり二萬石を領せりそのかみ親族讒者のために廣度院
J19_0566A15: に於て切腹せし時國師當歳の子を成長せしめられ七歳の時隨身せしめ給ひしかば深譽上人の時迄方丈に隨從しつゐに此役をたまは
J19_0566A16: れりとなお
J19_0566A17: ○新門前
J19_0566B18: 元祿十一寅年二月十一日貞譽公拜領あり表間口百九十八間余裏行十
J19_0566B19: 間間數二百三間四尺五寸坪數二千十四坪九合文化三火災後御火除となりて代地
J19_0566B20: を麻布にて賜へり
J19_0566B21: ○幸稻荷社地
J19_0566B22: 門前いまだ大門にうつらさりしさき沼にてありし時
J19_0566B23: 島中に安置せし稻荷也
J19_0566B24: 『社記』云應永年中勸請豐島郡岸村貳千石余の鎭守に
J19_0566B25: して郭公の名所也その比は奧州街道なりとぞ慶長
J19_0566B26: 中國師へ稻荷神形を現し山内繁榮の誓約ありて社
J19_0566B27: 壇建立神器寄附あらせらる今猶影向石あり廓山上人貞譽大
J19_0566B28: 僧正祐天大僧正神器走譽大僧正鳥居額を附せらる
J19_0566B29: 大門へうつりし時は外山の上に鎭座せしめ富山町
J19_0566B30: 靑木氏の後の山にあがめ寶永中岸町光室寺地の内
J19_0566B31: に鎭座ありしを願により別に地面を拜領せり則御
J19_0566B32: 當山鎭守の一分として修復其外御當山より許達あ
J19_0566B33: り又神供米をも附す神主長岡氏代代仕職たり
J19_0566B34: ○隱居所(圖略す)

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