浄土宗全書を検索する
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巻_頁段行 | 本文 |
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J19_0539A01: | の八重洲河岸の南比比谷町の方に萱ふきの一宇あり |
J19_0539A02: | しゆへ御入遊されこの寺の名は何と已下略 是又比比谷とあるにまかひてか |
J19_0539A03: | けり又『或書』の中に『鐵𫌏塵埃抄』を引て云當寺は |
J19_0539A04: | 芝口より金杉近所へ慶長七年寺院を轉ぜられ今年普 |
J19_0539A05: | 請御建立成就したり舊地は今の數寄屋橋の内にて堀 |
J19_0539A06: | 美作守秀家に給ひ半ば惣門となると按るに當寺の開 |
J19_0539A07: | 闢は貝塚にて其後今の數寄屋橋の内のほとりへうつ |
J19_0539A08: | り夫より芝に引れしならんしからば草創より三度う |
J19_0539A09: | つりしと見ゆ夫も慶長より以前の事なれは定かにし |
J19_0539A10: | りがたし『江戸名所記』云當寺初は貝塚の臺にあり |
J19_0539A11: | て光明寺といへる眞言宗なり已下略しこれらはいまだしからずといふべきか世 |
J19_0539A12: | に傳ふる所は貝塚にありし時靑松寺と軒をならべ永 |
J19_0539A13: | 世寺門の繁榮をともにすべきの約をなせり故に御當 |
J19_0539A14: | 山を此地に轉ぜられし時も願ひもて今の地にうつれ |
J19_0539A15: | りとぞ靑松寺は今愛宕前なりしかれとも『武鑑』にも貝塚靑松寺とあるは舊地の名をのこせり例せは大善寺はもと瀧山にあ |
J19_0539A16: | り八王子宿にうつり瀧山を二里隔てりしかれとも猶瀧山大善寺とよぶがごとし愛宕前は貝塜にはあらず又按るに今喰違の内に增上寺持 |
J19_0539A17: | 分ありといひ又增上寺の跡松平越後守の屋敷となれりとあれは今平川天神と元山王との間なれと其比は地は廣く武藏野につづけるゆへ |
J19_0539B18: | 小高き岡林をは御當山と靑松寺にてかこひつづきてありしかは一つに古名をのこせるならんか既に大神君より增上寺事は前前より紫衣 |
J19_0539B19: | のむねを知恩院へ仰遣さるの御書もあり又豐太閤禁制の札を賜ふとあれはおぼろげの寺院にもあらず又關左の談所宗門の叢林なりしか |
J19_0539B20: | は天正の末には寺中にも廣度院瑞花院花岳院天光院等並に學寮もありて今のごときの大伽藍にはあらねど境内梵閣ともになみなみの寺 |
J19_0539B21: | 院にはあらされば舊地も廣く名も遠くのこれり又今のことく一丁毎に名もなけれは地所は大方と心得へしされと和田倉龍の口などある |
J19_0539B22: | はあやまりなるべし是國師屋敷より書たかへる歟慶長三戌年八月台命を奉り源譽 |
J19_0539B23: | 不殘の二師御引移御造營の地所を撿撰せしめられし |
J19_0539B24: | 時二師御城をさる事遠からすして蒼翠の欝林この地 |
J19_0539B25: | にかぎれり殊に後には圓山觀音山地藏山つづき列り |
J19_0539B26: | 左には櫻川流れ右には赤羽の内大道にして前は滄海 |
J19_0539B27: | の濱ちかく松原見へて四神相應の勝境たれは奕世無 |
J19_0539B28: | 變の靈地たるへきよしを奏されけり又此時今の大門 |
J19_0539B29: | のあたりに稱名院天陽院常照院などありて物さひ寂 |
J19_0539B30: | 寞として實に佛閣を建立にたよりあるをのべけるに |
J19_0539B31: | ぞやがて御引移御造營仰付あり其後寬永十八巳年五 |
J19_0539B32: | 月廿六日松平陸奧守忠宗朝臣并鍋島などの三屋敷を |
J19_0539B33: | も添地にたまへり今三島谷より西方丈の圍の地なり |
J19_0539B34: | 古江戸圖に政宗やしきにとなりて東に鍋島信濃守久留島越後守鍋島市之丞ありこれを合せたまひしかは三島谷三島町なと呼初けり此 |