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J2820 三縁山志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0505A01: 風をしり頻に出家を乞つゐに同所專稱寺に出家せし
J19_0505A02: む當寺主善譽の弟子寂譽實道此時縁山にありを師とし剃度隨
J19_0505A03: 學すのち實道上人結城弘經寺より光明寺まで出世あ
J19_0505A04: りしに隨從補弼し常に内外の典籍を涉獵し寸陰をお
J19_0505A05: しまる日課數萬を誦勤し三經の讀誦毎日なり後に縁
J19_0505A06: 山に持寮し三席の階次二講の法務はたしつとめて終
J19_0505A07: に享保五子年五月廿二日台命を奉東漸寺に住せらる
J19_0505A08: 次に常福寺に轉し又光明寺に移る賜紫の高榮たりと
J19_0505A09: 雖偏に名利を呵責し西土を欣慕あり享保十七子年
J19_0505A10: 八月廿三日出府の命ありて廿八日縁山に貫主として
J19_0505A11: 大僧正に任す九月二日入院の式をととのへ十五日
J19_0505A12: 謝任の登營あり同十八年六月十五日歸國僧法問不出
J19_0505A13: の時は下沈消帳等の嚴規を定させらるすべて宗門の
J19_0505A14: 格規を掟し荒廢の寺院を興起す故に德名朝野にみち
J19_0505A15: 積功四遠にあまねし此時光明寺は我宗關左六派の本山にして記主禪師の影前なるゆへ本山の格をたて
J19_0505A16: 應對を改制したとへ當山の貫主に謁見の時たりとも拜十念をとどめらる又山下の僧三席の大衆は同庵たりとも山主に謁見すべきのむね
J19_0505A17: 命ぜらる學業を策勵せしめ説法の非法を誡策ありたとへ歸國の僧な
J19_0505B18: りとも三夏法問に不出せば下沉せしめ四夏不參の時は消帳せらろ故に山下に輻輳の僧修學を策勵せり又法問のみに限らず己己好み或は
J19_0505B19: 餘力ある時は詩文章に至るまでも學べきの事を常に示され學寮の諸法度を寫し置各寮毎に附置しむ又寮内にて尺八鞠音曲なとを停止せ
J19_0505B20: られすべて九谷の學寮規則の〓重なる事此時を盛とす故に會下に有名の徒多く集り檀林の衆其範を守行あり享保二十卯
J19_0505B21: 年正月廿八日隱退を願はれしかば二月八日免使井上河内
J19_0505B22: 守仙石氏と共に台命をつたへられしかば即日隆崇院にうつり
J19_0505B23: 九日寂せらる七十五才實は二日
J19_0505B24: 法系
J19_0505B25:
J19_0505B26: 觀智國師 孤峯心蓮社深譽 常州眞壁郡下舘專稱寺開山正保元年九月十三日寂 是閑稱蓮社善譽同寺二世承應元年九月十八日 實道用蓮社寂譽 弘經寺十九世弘經寺廿六世光明寺四十九世 貞享五年八月廿一日寂世壽六十五臘四十九 超宗衍譽大僧正『血脉記』云嫡弟超崇和尚隱遁而以非法流相續 今是除之有弟子超我今住上州高崎安國寺 壽元量蓮社經譽 寶永四年十一月十九日 於縁山伴頭席寂世壽五十法臘四十二 正眞仰蓮社遣譽 弘經寺廿六世大光院廿六世 傳通院

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