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J2820 三縁山志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0496A01: 傳通院より本堂後へ御改葬御追贈大御法會あり同月
J19_0496A02: 廿九日大僧正に任せらる十一月朔日御裝束にて任官御禮登城同六年正月憲
J19_0496A03: 廟御逝去御法會本堂に於て千部御修行尊牌御安置
J19_0496A04: あり當代麴町心法寺の儀に付大衆公事四月より發起し一文字閉戸七月十三日より廿五日迄其内六人追放四人百日閉戸なり此時より
J19_0496A05: 一分は方丈の分二分は大衆分と定法相定む中にも圓中受含等の數多の學者も追放あり正德元卯年十月廿
J19_0496A06: 九日夜かこ部屋より出火凡是迄六度の出火といふ故
J19_0496A07: におふやけの政司の評にも一代六度の出火三國に前
J19_0496A08: 代未聞とて終に十一月廿六日に退隱の願出すへき内
J19_0496A09: 沙汰ゆへ今日願達あり同十二月九日上使安藤右京亮森川紀伊守
J19_0496A10: りて免許ありしかは在住八年世壽七十四にして一本
J19_0496A11: 松に隱休す又靑山にうつらる享保五子年九月十三日
J19_0496A12: 遷化春秋八十三寺中常照院にて葬禮あり塔を累代の
J19_0496A13: 並に建
J19_0496A14: 凡此比を縁山の佛學正盛とす三谷の中に他部の講
J19_0496A15: 多かりし中にも生純の『楞嚴經』見超の『起信論』
J19_0496A16: 『法華經』靈玄の『圓覺經』『楞嚴』辨無の『倶舍頌疏』
J19_0496A17: 『圓覺』圓中の『起信』『維摩』觀徹の『唯識』忠學の
J19_0496B18: 『法花』等には他宗の學者殊に群をなせり其中辨無
J19_0496B19: の『圓覺』と圓中の『維摩』とは兩處同時の講なりし
J19_0496B20: に時の人『圓覺』辨無礙圓中『維摩經』といへり法問
J19_0496B21: 論議の盛隆も前代後代の及ふ所にあらすと云云
J19_0496B22: 第三十六主 明蓮社大僧正顯譽上人愚心祐天大和尚
J19_0496B23: 陸奧國岩城郡瞻澤郡か新倉村の人父新妻重政桓武天皇十七代後胤葛西三郞淸
J19_0496B24: 重鎌倉將軍家へ仕へ奧州七郡を領す四男朝重を新妻隱岐守と云奧州瞻澤郡を領す朝重より十一代の末裔なり寬永十四丑
J19_0496B25: 年四月八日誕生はしめ伯父僧休波御當山中の池德院
J19_0496B26: に住し正保二酉年春三月故郷に歸省す師十二才にし
J19_0496B27: て是に隨ひ縁山に到り暫し池德院にしたかひ後袋谷
J19_0496B28: 檀通師に投し剃度す師ひととなり推直敦厚氣宇世を
J19_0496B29: 覆ひ精力人をかね師の上人に善導寺弘經寺光明寺に
J19_0496B30: 歷事一つとして命に違ふ事なし其後德たち臘みちて
J19_0496B31: 將に檀林に住すへきの職長にいたる然るにもとより
J19_0496B32: 隱操の志し切にして世榮をもとめす故に年五十歳に
J19_0496B33: して貞享三寅年故ありて縁山を隱退す是より諸方に
J19_0496B34: 遊ひ名籃を歷瞻し衆機を勸奬し化迹殆と天下に遍稱

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