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J2820 三縁山志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0477A01: に補す天正十七年四十一歳にして同山に住持し法幢
J19_0477A02: 弘通の高職をうく是團譽上人の讓職なりしばらく
J19_0477A03: して上總國大瀧に至り良信寺を開創し住する事三年
J19_0477A04: 是より先飯沼弘經寺は一宗の大叢林にして關左の
J19_0477A05: 談所たりしかど多賀谷修理太夫陣を張北條氏政と
J19_0477A06: 『東國戰記』にも載之挑戰により寺宇殿閣悉く兵火に烏有せしか
J19_0477A07: は寺主存把上人寺を遁れ出結城寺をさる事七八里に至り又弘經
J19_0477A08: 寺をひらく宰相秀康公の命によれり其跡廢絶たりしかば師是を中
J19_0477A09: 興し住持せらる此のち諸所に梵宇をひらく事少から
J19_0477A10: す神祖君駿府城にましまし圓頓戒の再傳を洛東新
J19_0477A11: 黑谷の主琴譽盛林上人二十六世にとひたまひしかば今師
J19_0477A12: をすすむ神君飯沼に命使ありて師を拜し圓頓布薩の
J19_0477A13: 二戒を受給ひ翌日珍膳を玉はり又黄金五十枚竹生島
J19_0477A14: 所獻の脩竹一根をたまふ又台德大君も師を營中に
J19_0477A15: 延かの二戒を受給ひ御みつから金裝の團扇を賜へり
J19_0477A16: 下總國大鹿村にいたり弘經寺天正年中飯沼第七世宣譽祖白上人の開創の廢絶
J19_0477A17: をなけき是を再建し一夏の間法幢をたて百餘の衆徒
J19_0477B18: 論難問答すといく程なく寺を弟子了聞に附屬し飯沼
J19_0477B19: に歸る寬永四卯年師七十九歳にして飯沼を辭し佐倉
J19_0477B20: にゆきて淸光寺に閑居す當城主侍從大炊頭利勝朝臣
J19_0477B21: の請によりて松林寺をひらく又伊勢國桑名城主侍從
J19_0477B22: 美濃守忠政朝臣の請によりて西岸寺を桑名本邑に開
J19_0477B23: 創す當寺後大守に隨ひ大和國郡山播磨國姬路に移り當時三河國岡崎城中にあり寬永八未年冬大君
J19_0477B24: 御不豫の時師を請し期日の善知識たらしめん事を閣
J19_0477B25: 老利勝朝臣奏し奉り師に諭す師固辭し奉らる『東武實錄』卅五
J19_0477B26: 云寬永九正月元日傳察上人遷化增上寺無住の旨六日に大炊頭利勝朝臣台聽に達し奉らる別命ありて師をさだむ嚴旨頻な
J19_0477B27: りしかば營に登り御座に對し淨土の眞要を説き十念
J19_0477B28: を授奉らる同九年正月十七日縁山第十七主として入
J19_0477B29: 院あり同月廿四日大君薨御廿六日御遺骸を移し奉り
J19_0477B30: 御導師たり是より猷廟禮遇益ます降り信使日日に至
J19_0477B31: り贈遺時時に重れり別に命ありて安國殿を南山に移
J19_0477B32: し奉り其跡に法寶藏を建又同山下三島谷の地を當山
J19_0477B33: 境内とす又甞て道塲を營中に設け日を尅し淸肅し圓
J19_0477B34: 頓布薩の二戒を受たまへり同年冬退院の地を四谷竹

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