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J2820 三縁山志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0474A01: 甲州人姓近藤氏永祿十年十歳にして府中瑞泉寺に入
J19_0474A02: 大譽順的上人を拜し薙染す天機甚明にして須臾の間
J19_0474A03: に衆經に通す師其器宇の凡ならざるをよみし上州上
J19_0474A04: 蓑の存置和尚に附送す十七才にて登壇受戒す後又國
J19_0474A05: 師に隨ひ常に城講に列り神祖君台大君の爲に寵せ
J19_0474A06: らる慶長五大君關原の凶賊を征し給ふ時國師より濃
J19_0474A07: 州勝山の御陣へ慰問の使僧今師たり時に皆御譜代御側向
J19_0474A08: の名を忌み眉を濳て云了的來れりと兩敵と了的と和訓ちかきか故也
J19_0474A09: 云了的既に幕下に伏來降禮あり快からさるやと神
J19_0474A10: 大君大に微笑ましまし其答辨を優稱し給ふ同八年の
J19_0474A11: 比小田原大蓮寺に住し一百の學士を鳩め法幢を行ひ
J19_0474A12: 論規を擧け又命によりて江戸にかへりしばし師の座
J19_0474A13: 下に弼務す
J19_0474A14: 『駿府記』云慶長十七子二月廿八日呑龍了的傳孔
J19_0474A15: 自江戸來自常御所召之御法談移刻
J19_0474A16: 又國師の奏大君の命により洛東新黑谷金戒光明寺は
J19_0474A17: 大師の遺跡にして大梵刹なりしかと應仁文明の後は
J19_0474B18: 打つづき兵戈の爲に境宇ともにをかされ廢絶になん
J19_0474B19: なんたりしにそ是を中興せん爲に第卅七世の住持
J19_0474B20: として紫服を着す紫衣又神祖の命なり元和二年大坂の御陣を伺
J19_0474B21: 奉りし時一月余御座眤の寵命あり此時國師の許へ御陣の事ともをしるせる師の
J19_0474B22: 文今尚縁山寶庫にあり同三巳年八月晦日姬君はしめ蒲生秀行朝臣の室たり此時は淺野長晟朝臣の室
J19_0474B23: 掩粧ましましけれは御遺言によりて師を大導師と
J19_0474B24: し當山黑谷に葬送あり正淸院と號す後又藝陽に正淸院を創建
J19_0474B25: せられしも師の含意なり寬永二丑年十一月廿六日命
J19_0474B26: によりて縁山第十四世の貫主となる是より常に登城
J19_0474B27: 法問あり同三寅年九月十五日大夫人薨逝ましませし
J19_0474B28: がは十八日夜に入戍中刻御遺骸を縁山に御葬事ありて
J19_0474B29: 師大導師たり崇源院殿と號す御追福として萬部の大法筵あり
J19_0474B30: 是淨家にて萬部の始なり御一周も御三回何れも御法會萬部なり同
J19_0474B31: 七午年七月十七日大樹君御茶會あり
J19_0474B32: 『東武實錄』云寬永七年六月十七日 公增上寺に御
J19_0474B33: 參詣方丈におゐ 御茶を可被 召上由兼て被 仰
J19_0474B34: 出に依て水戸黄門賴房卿丹羽五郞左衞門長重加藤

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