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J2820 三縁山志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0449A01: 俗の尊高をきはむへきを尚は貫主異職のところに委
J19_0449A02: 辨すへし
J19_0449A03: 第十列祖高德
J19_0449A04: 開山 大蓮社酉譽上人聖聰大和尚
J19_0449A05: 下總國の人にて桓武天皇後胤千葉介氏胤二男なり
J19_0449A06: 系出前母新田左中將源義貞朝臣の女貞治五午年七月十
J19_0449A07: 日千葉の館に誕生幼名德壽丸諸傳悉く德壽丸とあり『大業廣記』には德千代丸とす
J19_0449A08: 冠し胤明と名く風神宏秀幼して葷膻を禁し釋典を慕
J19_0449A09: 『鎭流祖傳』に云家兄滿胤妾腹而執宗緖母憤吾子不樹九歳遂出家于千葉寺『一書』に云千葉介氏胤の室家は故左中將源義貞
J19_0449A10: 朝臣の女也然るに建武四年の秋義貞朝臣黑丸城攻の時流矢に命をおとし給ひ其外の一族氏類もみな南朝の爲に亡ひうせしかは今は翡翠
J19_0449A11: の粧も涙にやつれ松ふく風に魂もそふへきにあらねはせめては一族父兄の靈義出離菩提の爲に出家せしめはやとよりより家人にかたり
J19_0449A12: 給ひしかは氏胤もこよなくよろこひつゐに千葉寺に出家せしむと云云『又一説』に云氏胤二男は祖父貞胤凖子にして椎名の家をつかしむ
J19_0449A13: 是は本腹にて智も深く勇もあれと當時足利の威に伏從せる身としては義貞朝臣の女になれそふをもははかるべきなれとも捨小舟の身に
J19_0449A14: ひとしく氏族みな忠死にうせけるもひんなふあはれにてそれか子に家督せしめんはうしろめたけれとて出家せしめけると云云『或』云氏
J19_0449A15: 胤もと義貞の一味として敵なりしを足利尾張守高經のすすめによりて降參せしかは東國の基氏是をいぶかり常に其さまをうかかひしか
J19_0449A16: は其疑を散ぜしめんかため室家のうめる子を法師にはなせしと云云此三説いつれも允當なり傳文に幼絶葷膻といふ文の次に宗緖とらざ
J19_0449A17: る憤ゆへとは文異せりもし『僧傳』の意によらはみつからこのみて出家せしとみへたり
J19_0449B18: 九歳にして遂に千葉寺に出家し密宗を學ふ天禀の俊
J19_0449B19: 朗悉く密乘の群規を究む至德二年二月一旅のもの橫
J19_0449B20: 曾根の館にて聖冏上人を請し淨宗の要路をとかしむ
J19_0449B21: るの席に至り忽ち本宗を抛ち淨土易行の玄門に入給
J19_0449B22: へり『江戸名所記』云後小松院御宇至德二年丑の夏光明寺にて論議あり算題は善導和尚の『四帖疏』に長時起行杲極菩提といへる釋文
J19_0449B23: あり酉譽上人能化として所化の輩と問者答者互に法門の扉をひらき疑難の關をくたかんとす玆に聖冏和尚は托鉢の體にてかの講席法門
J19_0449B24: の端に立てつらつら是をきき莞爾として笑て立かへらる酉譽上人此よしを見てみつから高座を立て跡を追て尋ね行給ふに淺草の邊〓し
J19_0449B25: て追つめ遂に其笑を含て退く事を問給ふに冏公其故を答へらる互に問答ありて淨土の奧儀を述たまふに酉譽上人深く法味をあちはひ豁
J19_0449B26: 然として前の非を知り眞言宗をすてて偏に淨土宗に歸し則我寺光明寺を改めて三縁山增上寺と號し聖冏上人の弟子となりて一心金剛の
J19_0449B27: 血脈をうけけると云云冏公此時眞言上乘の密門も下機根劣に修行
J19_0449B28: かたけれは五相成佛の名は顯敎に卓秀たるべけれと
J19_0449B29: 四曼三密の花行者の胸園にひらくへからす我淨土の
J19_0449B30: 敎道は五乘齊入の深術下劣鈍機をもらさす上は普賢
J19_0449B31: 文珠の亞聖をはしめ龍樹天親の大士より我我ことき
J19_0449B32: もの迄も悉生淨土の大益釋尊出世の本懷諸佛同讃の
J19_0449B33: 護念なりと三佛一致の講談ましましけれはいよいよ
J19_0449B34: 淨敎の相判をさとりて深く彌陀の願意を仰き琢磨研

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