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J2820 三縁山志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0274A01: 御加助のむかしを御演説ましまし且又親氏君泰親君
J19_0274A02: 信光君より不改不變の御宗門たるを以て御菩提所を
J19_0274A03: 當寺にさためさせ給ひけるか又靑山家に傳ふる作事
J19_0274A04: の務は慶長三年八月今の地にうつり堂閣御建立の時
J19_0274A05: ならんか貝塚の時御造營ありし事不詳もと今の地に
J19_0274A06: は稱名院といへる寺今大門の邊ありしを不殘長老國師と
J19_0274A07: 共に寺地見立の時に稱名院ともに地續に奏せられし
J19_0274A08: かは稱名院を八町堀に移し當所より移れるゆへ日比谷町といふ其跡へ增
J19_0274A09: 上寺を御引うつしありしなり稱名院の寺號を改めし
J19_0274A10: にはあらす故に今稱名院は日比谷町より又三田に引
J19_0274A11: れてあり又學譽大僧正の自記に慶長中御菩提所とあ
J19_0274A12: 此記も今庫に在若此説によらば御入國の後程過ける間は諸
J19_0274A13: 寺院の道德兼備の僧を内内淸撰仰出され存應和尚の
J19_0274A14: 外は淨家に智行勝れし僧あらさりしかば慶長中仰出
J19_0274A15: され寺を直に今の地に移し給へるにや國師此前夜夢
J19_0274A16: 想ありし增上寺のきはのたるきしけるらんといふ句を門前の老翁見たりしを靑銅廿疋にてもとめらるを求め
J19_0274A17: 得られしかは翌日命ありて諸堂御造營の御沙汰初り
J19_0274B18: けると此説をもしかりとすべきかされと諸書にみな
J19_0274B19: 悉く御入國の年とあれば正否定かたし又或人の云そ
J19_0274B20: のかみ御菩提所の御契約はあらせられしかと寺院御
J19_0274B21: 引移は後に至れり故に傳通院殿の御葬事の比は慶長七年
J19_0274B22: 今の寺全備せさると國師の奏にて開山上人の師なる
J19_0274B23: 了譽上人の牌所光榮を存せられ擧用なせしとそ是當
J19_0274B24: 山に傳ふる所にして古記に見へたり然りといへとも
J19_0274B25: 其かみ仰出されし御諚全くかくのことくにして此外
J19_0274B26: に別の義なしと今定むるにはあらず
J19_0274B27: 謹案るに御當家淨土宗と御由緖の厚き事は先御家
J19_0274B28: 號を德川と申奉るは御先祖御累世棲させ給へりし
J19_0274B29: 地名なり我元祖洛東吉水に宗を弘め給へり是德川
J19_0274B30: 吉水は同一の躰名なり又淨家の源流三十餘に分れ
J19_0274B31: り然に白旗流を御崇敬させられしも自然の不思議
J19_0274B32: ならずや弘安中記主禪師の高弟寂惠上人相模國白旗村に弘化ありしかは其流を白旗流と名く曩祖大
J19_0274B33: 炊介殿吉水大師に歸依ましまし西土往生を遂給ひ
J19_0274B34: しかは慶長十六亥年三月廿二日御贈官の時新に大

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