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J2810 華頂誌要 華頂山編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0194A01: 小路秀房公の息なり、其皇室と外戚の親あるを以て
J19_0194A02: 内外に重んせられ、常に宮中に參して屢屢宗要を奏
J19_0194A03: す。
J19_0194A04: 弘治三年十一月 正親町天皇山越の彌陀一鋪を賜
J19_0194A05: ふ、盖し先皇此年九月五日後奈良天皇崩御御追福の爲なり。
J19_0194A06: 永祿六年四月勅に應して一枚起請文を小御所に講
J19_0194A07: し。翌年九月及ひ十二年八月同しく淨敎を進講した
J19_0194A08: てまつる。
J19_0194A09: 天正三年九月には毀破の綸旨を賜はり門葉衆徒の香
J19_0194A10: 衣執奏を專管せしめたまふ。同九年九月また宮中に
J19_0194A11: 於て法談あり。
J19_0194A12: 又將軍足利義輝公は永祿三年五月親寫の一枚起請文
J19_0194A13: を寄せ。九月一宗本寺の坐次公帖を附す。
J19_0194A14: 天正元年織田信長將軍足利義昭と隙あり。三月上洛
J19_0194A15: して本陣を當院に搆ふるや、白銀五百枚、鳥目五百
J19_0194A16: 貫文、米三百石を寄せ、以て臨時諸堂の修復及ひ年
J19_0194A17: 中の常什を辨せしめ。同十月愛宕郡百貫文の地を
J19_0194B18: 寺領に充つ。同七年二月、更に寺領百石を加增す。
J19_0194B19: 又豐臣氏に至り、天正十三年十一月寺領百九十石の
J19_0194B20: 朱印を付し、翌年十一月二百石とし、文祿二年九月
J19_0194B21: 更に二百四十六石七斗二升に加增す。
J19_0194B22: 又天正十九年十二月、靑蓮院領地山林の一部を得て
J19_0194B23: 境域を擴む。
J19_0194B24: 文祿四年十一月浩譽上人退隱し、其資滿譽尊照浩譽の甥
J19_0194B25: 第二十九世に補す。
J19_0194B26: 此時に當り、德川家康公三河より起りて關八州を領
J19_0194B27: し、尋いて豐臣氏に代りて天下を掌握し、覇府を江
J19_0194B28: 戸に開く、世世本宗に歸仰せるを以て、其本山にして
J19_0194B29: 且つ超譽上人曾住の由緖を訪らひ、慶長八年十月寺
J19_0194B30: 領七百三石餘を給し、又生母傳通院殿慶長七年八月伏見に薨す、當院に於
J19_0194B31: て葬儀を行ひ、後江戸小石川に歸葬す菩提の爲め當山境域を擴張し、大殿
J19_0194B32: 諸堂を營搆せしむ。即ち現今の中下二段に在りし靑
J19_0194B33: 蓮院の領地及ひ常在光院今の大庫裡の地にあり太子堂速成就院と號す、今の光玄
J19_0194B34: 院の地にあり金剛寺阿彌陁堂と號す、今の福壽院、浩德院の地にあり親鸞聖人の墳墓今の祟泰院の

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