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J2810 華頂誌要 華頂山編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0193A01: 遍の住持傳譽、權貴に依附して自ら本山に處り、當
J19_0193A02: 院を以て其別院に准せんとす。靑蓮院尊鎭法親王當
J19_0193A03: 院に荷擔して、其非理を辯訴すれとも聽かれす。怏
J19_0193A04: 怏として高野に遁れたまひしかは、山門三塔僉議し
J19_0193A05: て、朝廷及ひ幕府に訴へ、事漸く當院の利に歸し、
J19_0193A06: 親王も復座し給へり。當院の規格是に於て定まる。
J19_0193A07: 是より 至尊後柏原帝の御歸崇日に厚きを加へ、大永四
J19_0193A08: 年正月御忌鳳詔を下して、毎歳正月京畿の門葉を當
J19_0193A09: 院に集め、一七晝夜開祖上人の御忌を修せしめたま
J19_0193A10: ひ、同六年四月御大漸に臨み、超譽を召して受戒念
J19_0193A11: 佛したまひしかは、翌月 後奈良天皇彌陀來迎圖惠心筆
J19_0193A12: 一鋪を賜へり。斯の如く超譽上人 皇室の歸仰厚か
J19_0193A13: りしを以て、後ち 孝明天皇安政四年に至り、高顯
J19_0193A14: 眞宗國師と諡せらる。又後年德川氏の本院を興隆せ
J19_0193A15: しもの、一は上人縁戚の餘光に基けり。
J19_0193A16: 大永八年四月 後柏原天皇第三回の御忌に當り、
J19_0193A17: 後奈良天皇親ら阿彌陀經を宸寫して當院に賜ふ。
J19_0193B18: 又是時に當り、 皇室式微、帝道振はさりしかは、
J19_0193B19: 本院歷代の住持普く諸國の門葉に下知して、王事に
J19_0193B20: 勤めしむ。邊陬所在の本宗寺院、到る所勅願所の綸
J19_0193B21: 旨勅額若くは紫衣、香衣の綸旨を帶ふるもの、多く
J19_0193B22: 其勤王の功を錄するに由る。第二十七世德譽光然の
J19_0193B23: 時、享祿三年御影堂を再興す。 後奈良天皇嘉稱し
J19_0193B24: て「知恩院」、「大谷寺」の額を賜ふ。
J19_0193B25: 享祿四年閏五月、德譽參内して法然上人傳を披講し
J19_0193B26: たてまつる。
J19_0193B27: 天文八年八月尊鎭法親王の執奏に依り、開祖上人に
J19_0193B28: 光照大士と 勅諡ありしかは、法親王之を題して額
J19_0193B29: を影堂に揭く。然に十月叡山衆徒の抗議あり宣旨を召返さるるに至れり
J19_0193B30: 天文十七年縁譽稱念當院の南に一心院を創め、大に
J19_0193B31: 本院の化を助く。二十二年同法百十餘人と誓書し、
J19_0193B32: 開祖影前に於て不斷念佛毎月廿四日夜を興行し、又資財を諸
J19_0193B33: 國に募りて、御影堂を瓧葺に改む。
J19_0193B34: 天文二十三年浩譽聰補二十八世を嗣く、内大臣萬里

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