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J2810 華頂誌要 華頂山編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0192A01: を勅修御傳といふ。後國師の跡を繼いで、當院第九
J19_0192A02: 代の別當に補せらる。
J19_0192A03: 其後第十二世誓阿上人京師災禍の多きを憂ひ、 後
J19_0192A04: 光嚴天皇應安三年、朝に奏して大師の影像一軀御自作三
J19_0192A05: 軀の内及御傳の副本を護持し、大和國當麻に退隱して
J19_0192A06: 往生院を立つ。現今奧院と稱するもの是なり。
J19_0192A07: 夫より物換り星移りて、 後花園天皇永享三年、當
J19_0192A08: 院回祿に罹る。實に文曆の復興より百九十餘年なり。
J19_0192A09: 足利將軍義敎公即時造營の令を下す、住持空禪二十世
J19_0192A10: 意巧を廻らし、人別一文充四十八萬人を勸進し、數
J19_0192A11: 年を出てすして佛殿影堂舊觀に復す。當時勸進の版木今尚ほ當山寶庫に藏
J19_0192A12:
J19_0192A13: 此頃洛中に於ける鎭西義は、淨華院向阿の餘流のみ
J19_0192A14: 獨り世に聞えしか、嘉吉二年大譽慶竺增上寺開山酉譽資關東よ
J19_0192A15: り上洛し、初め百萬遍を興し。後ち寶德二年當院二
J19_0192A16: 十一世に補し、講學布敎盛に鎭西白旗の正義を皷吹
J19_0192A17: せしかは、宗風大に揚り、京畿の間相傳へて鎭西義
J19_0192B18: の中興と稱す。
J19_0192B19: 長祿四年二月靑蓮院より敷地山林所領安堵の狀を賜
J19_0192B20: はる。
J19_0192B21: 第二十二世周譽珠琳に及ひ、應仁の大亂あり。京師
J19_0192B22: 殆と焦土となり、本院も亦烏有に歸せり。是に由て
J19_0192B23: 難を江州伊香立に避けて假栖し、新知恩院と稱す。
J19_0192B24: 後その鎭靜を告くるに及ひ、文明十餘年洛に歸り、
J19_0192B25: 將軍足利義政公に訴へ、朝野の賛助を得て、佛殿影
J19_0192B26: 堂を舊地に營む。靑蓮院尊應准后其功を錄して、長
J19_0192B27: 享二年八月山林敷地を復したまふ。
J19_0192B28: 延德三年七月管領細川政元所領安堵の狀を寄す。
J19_0192B29: 後柏原天皇永正十四年八月廿八日、當院再ひ回祿
J19_0192B30: に罹りしかは、現住肇譽訓公第廿四世助縁を四方に募り、
J19_0192B31: 同年十二月東福寺内萬壽寺の堂宇を移して、阿彌陁
J19_0192B32: 梁行六間桁行七間瓦敷にして禪宗の法堂の如し圓座を布く屋根一層にして粗造なりしを營搆す。
J19_0192B33: 永正十七年超譽存牛第廿五世に補す。上人は三州岩
J19_0192B34: 津城主松平親忠德川家康六世の祖の子なり。大永の初め、百萬

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