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J2810 華頂誌要 華頂山編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0191A01: も聽かす。即夜遺弟竊かに遺骸を嵯峨に移す。宇都
J19_0191A02: 宮蓮生、千葉法阿、内藤西佛等家子郞等を催具して路
J19_0191A03: 次を警衞す。其數一千餘人に達すといふ。翌年正月之
J19_0191A04: を粟生野に荼毘したてまつる。山徒また『選擇集』及
J19_0191A05: ひ其印版を奪ひ、悉く之を燒棄す。是に於て敎運一
J19_0191A06: 時に挫折し、祖跡全く湮滅に歸せり。勢觀房源智上
J19_0191A07: 人深く之を慨き。其後七年、文曆元年朝に奏して大
J19_0191A08: 谷を復興し、始て知恩院大谷寺と稱す。 四條天皇
J19_0191A09: 嘉して勅願所となし、勅額を賜ふに至る。
J19_0191A10: 源智上人は備中守平師盛の子、内大臣重盛公の孫な
J19_0191A11: り。幼より大師に常隨給仕すること十八年。大師の
J19_0191A12: 憐愍他に異り。宗戒兩脈並に聖敎房舍等悉く之を付
J19_0191A13: 屬したまへり。然れとも性隱逸を好み、自行を本と
J19_0191A14: して法幢を建つることなし。此時に當り、大師の門
J19_0191A15: 下異義紛亂として各流派を分つ。鎭西の聖光、西山
J19_0191A16: の善惠、長樂寺隆寬、九品寺覺明の四家を其最とす。
J19_0191A17: 中に於て鎭西の聖光房能く師傳に信順して、毫も私
J19_0191B18: 見を加へす。此を以て源智上人之と親交あり。其後
J19_0191B19: 聖光房附法の弟子然阿良忠洛に入りて其所承を弘む
J19_0191B20: るや、上人の附弟蓮寂房之と東山赤築地に會し、其
J19_0191B21: 義道の違はさるを認め、是より永く鎭西義に依附し、
J19_0191B22: 本院また其流に屬することとなりぬ。
J19_0191B23: 源智上人より道宗、道舜、覺生、觀明、了信の五世、
J19_0191B24: 其傳詳ならすと雖も、後嵯峨天皇寬元二年正月開祖
J19_0191B25: 三十三回忌に當り、通明國師大和尚位を勅諡ありし
J19_0191B26: といふ。獅子伏象論に出つ
J19_0191B27: 第八世如一國師、法を小幡の慈心良忠の資に禀け、學德
J19_0191B28: 一世に秀てしかは、 伏見、 後伏見、後二條、後
J19_0191B29: 醍醐四朝の歸崇を蒙り、屢屢淨土の要義を宮中に進
J19_0191B30: 講す。文保元年九月 伏見法皇御臨終の知識を奉仕
J19_0191B31: し、生前に 後醍醐天皇より國師號を賜はれり。叡
J19_0191B32: 山功德院舜昌法印師の道風を慕ひ、山を下りて其化
J19_0191B33: を助く。 後伏見上皇勅して開祖上人の傳記を總修
J19_0191B34: せしむ、乃ち『行狀畫圖』四十八卷を上つる。世に之

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