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J2410 九巻伝 〓 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J17_0240A01: 或人云此義恐クハ不允當乎嘉祿年中ヨリ三十餘年後ノ記ト見ヘタ
J17_0240A02: リ其證ハ隆寬律師往生ノ篇ニ朝直朝臣ノ病惱ヲ擧テ文永元年トア
J17_0240A03: リ嘉祿ヨリ文永迄ハ三十九年後也サレバ文永已後ノ撰述ニヤ後賢
J17_0240A04: 考フベシ。
J17_0240A05: 寶曆四年甲戌四月 穪阿挍
J17_0240A06: 寬政五丑十二月中頃ヨリ寫シ始メ寬政六寅正月上旬阪松山丈
J17_0240A07: 内ニテ寫シ畢ル。
J17_0240A08: 智譽願阿定境
J17_0240A09: (九卷傳寫本中右ノ附記ナクシテ忍海上人ノ附記ノミアルアリ又
J17_0240A10: 忍海上人附記ニ加フルニ熏譽上人ノ追記アルアリ今記念出版ニ
J17_0240A11: 際シ參考ノタメ兩者ヲ轉載ス)。
J17_0240A12: 九卷傳は。元祖滅後凡百五十年の頃に於て。隆寬律師の門葉より
J17_0240A13: 記錄せしと古傳に云傳へたり。凡元祖御傳の内には最初の編集な
J17_0240A14: り。故に舜昌法印錄せる勅修御傳四十八卷も。この九卷傳を基と
J17_0240A15: せり。翼贊の内。處處に九卷傳を出して引合たるは此傳本なり。
J17_0240A16: 然るに此九卷五十歳來堙滅して誰も見る人なし。しかも其本世に
J17_0240A17: 希也。今寫せる本は義山上人所持の本にて。華頂山下入信院の藏
J17_0240A18: にあり。義譽觀徹上人寫し傳へて。彼の法流の所に祕藏せしを。
J17_0240A19: 幸に求め得て寫す者也。實に難得の傳文。祕藏奉持すべき者也。
J17_0240A20: 又水戸常福寺に黄門君の納め給へる九卷の御傳あり。題號は拾遺
J17_0240A21: 古德傳とあり。詞書は公卿の筆。畫は土佐何某也。九卷有故に或
J17_0240A22: は心得ざる人は是を九卷傳と思ふ輩も粗あり。ふかく思察すべ
J17_0240A23: し。此拾遺古德傳九卷は。貞享年中に板行して京都には行はるる
J17_0240A24: 也。しかれども脱葉多くして水戸の藏本に據らざれば全傳としが
J17_0240B25: たし。今九卷は實に宗門の大寳物なり。可珍重者也。
J17_0240B26: 寶曆九卯年九月 忍海記
J17_0240B27: 今私云。曇譽忍海上人。古傳を載せられたり。然に古傳と云と雖
J17_0240B28: も信用し難し。奈何となれば九卷傳は元祖滅後凡八九十年の内に
J17_0240B29: 編集したりと見へたり。蓋し舜昌法印の集錄にして勅修の草稿に
J17_0240B30: もなりぬべし。是を以て勅修の序も九卷傳の初めの序を將用し給
J17_0240B31: へり。今此傳に序文兩通あり。初めの序文に。上人の遷化すてに
J17_0240B32: 一百歳に及べり。次の序文に。ここに開山源空上人と云ふ人あ
J17_0240B33: り。此語正に是れ舜昌なるべし。又按に兩序あるべき道理もある
J17_0240B34: なし。爾れば初序は舜昌の作。次序は別人作歟。其語意を按ずる
J17_0240B35: に。本は台宗にして後に淨土門に入て元祖を異代の師匠と仰ぐと
J17_0240B36: 見へたり。もし然らば古傳の義趣は。年序六七十年も後れたり云
J17_0240B37: 云。是又晝圖も九卷傳を始起とすべし。其旨兩通の序文及び第九
J17_0240B38: 卷の終りに見へたり。是を以て此傳の詞はふく晝圖と符合し見
J17_0240B39: 得すべし。勅修詞書は晝圖に合せざる處ままこれあり。知るべ
J17_0240B40: し。
J17_0240B41: 熏譽在禪誌

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