ウィンドウを閉じる

J1420 和語灯録日講私記 義山・素中 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J09_0664A01: 日本紀の説也○聖德太子とは我朝の佛法最初の導師
J09_0664A02: なれは日本の釋迦なり爾れは世人皆太子の恩を報す
J09_0664A03: へきこと也今時は大工ならては太子を信せぬ樣にす
J09_0664A04: るは謬り也扨如來へ御文を進し玉ひし事委くは御傳
J09_0664A05: 第十六翼賛に有り予か隨聞記を見合せて辨すへし具
J09_0664A06: に記之聖德太子の名義は畧之
J09_0664A07: ○先代舊事本紀第三十卷欽明天皇十四年正月の紀曰物部
J09_0664A08: 大連尾興及中臣連鎌眞奉詔將衆向小墾田取釋
J09_0664A09: 迦像以〓吹之終不融解火不更近以鐵鎚擊
J09_0664A10: 不附小疵乃至於是大連乃以佛像流棄波花堀
J09_0664A11: 江深底復縱火於伽藍燒燼以更無餘と按するに十
J09_0664A12: 卷の太子傳眞名之本に依るに太子十三歳の御時興嚴寺豊浦寺是
J09_0664A13: なりを建立し給て石像の彌勒を始め舍利及ひ經卷を安
J09_0664A14: 置し又一光三尊の如來を難波の堀江より取り擧け奉
J09_0664A15: て同く此を安置し給ふ其翌年太子時に十四歳守屋彼の豊浦寺
J09_0664A16: を燒き拂ひ燒けざる所の佛像を取て亦難波の堀江に
J09_0664A17: 投すと今所言堀江は豊浦寺の東佛門の東飛鳥河の
J09_0664B18: 西の入江なり昔は彼の江廣博にして海浦に相似たり
J09_0664B19: 故に豊浦とも云なり攝州の難波に擬して今難波の堀
J09_0664B20: 江と云なりされは一光三尊の如來を堀江に投するこ
J09_0664B21: と兩度なり此の後本田善光か所に渡り給ふ然るに善
J09_0664B22: 光寺縁起には敏達帝御煩の時乃至如來光明を放て飛出
J09_0664B23: 玉ふと未知孰是是に知ぬ舊史并に十卷の太子傳
J09_0664B24: 善光寺縁起等の趣き欽明天皇十三年十月に渡し奉る
J09_0664B25: 金銅の釋迦の像と云は一光三尊の靈像なること决し
J09_0664B26: て疑無しされと舊史紀傳一所として一光三尊彌陀の
J09_0664B27: 像と云事なし皆釋迦の像とあり何なる由にや定て意
J09_0664B28: 旨あるへし委くは別に記錄す○又十卷傳第三云太子
J09_0664B29: 御歳卅一推古天皇十三壬戌王城は大和國高市郡小墾田
J09_0664B30: 村也時に信濃國麻績東人善光字本太乃至如來告善光
J09_0664B31: 言汝天竺にての契約從生國尋ね來れり殊に日本に
J09_0664B32: て心を苦しむ或は尾興の大臣か強て依訴被隱蘇我
J09_0664B33: 稻目或は守屋か依邪見被沉難波堀江見憂目
J09_0664B34: 事五十年也稻目か時十九年馬子か時十四年堀江の中

ウィンドウを閉じる