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黄檗宗

提供: 新纂浄土宗大辞典

おうばくしゅう/黄檗宗

京都府宇治市の黄檗山万福寺大本山とする禅宗宗祖隠元隆琦いんげんりゅうき。明の末期、中国福建省福清県にある黄檗山万福寺住持隠元は、弟子を長崎の唐寺に住持として派遣するが、海難に遭い果たせず、弟子等とともに承応三年(一六五四)長崎に渡来した。その伝える禅は、初祖菩提達磨から六九世、臨済正伝三二世で、臨済禅の一派。臨済宗黄檗派、禅宗黄檗派あるいは黄檗宗とも呼ばれていた。明治七年(一八七四)、臨済宗と合併されたが、同九年二月に臨済宗から独立して黄檗宗となる。隠元をはじめ黄檗僧はその墨跡に「臨済正宗」を押印している。高僧の隠元の渡来により日本の臨済宗妙心寺では妙心寺住持に迎えようとする運動も起こり、幕府に働きかける竜渓宗潜りゅうけいそうせんなども現れた。竜渓等の尽力により寛文元年(一六六一)、徳川家綱を大檀越として宇治に黄檗山が開創される。福建省を古黄檗、宇治を新黄檗という呼称も使われることになる。こうした経緯から万福寺は唐僧が住持となり、一三代竺庵浄印じくあんじょういんまで続き、以後和僧が主に住持となる。幕府を檀越として大きく教団を伸張させ、開創一〇〇年足らずの延享二年(一七四五)には末寺が一〇四三箇寺にもなったという。黄檗の禅は、明末の四宗融合の禅であり、念仏禅ともいわれる。その教義は「参禅を以て仏心を究明し、唯心の浄土、己身の阿弥陀仏を体得し禅教一如の妙諦により転迷開悟安心立命を期する」であり、唐音(華南の発音)により阿弥陀仏の名を称え、『阿弥陀経』を読誦する。浄土宗指方立相の立場と相違するが、浄土宗義山忍澂の伝には、黄檗第四代独湛性瑩どくたんしょうけいとの交流の記事もある。独湛念仏独湛とも呼ばれ、当麻曼陀羅の模写や縁起の刊行、さらに『扶桑寄帰往生伝』等を著した。また厭求の伝には第二代木庵等、黄檗僧との道交を記しているなど、浄土宗僧との交流も多い。また明の万暦版大蔵経を基本底本として鉄眼が刊行した黄檗版大蔵経の流布と影響は、『大正新脩大蔵経』まで及んでおり、今も摺印されている。


【参考】服部英淳『浄土教思想論』(山喜房仏書林、一九七四)


【参照項目】➡性瑩


【執筆者:松永知海】