教相判釈
提供: 新纂浄土宗大辞典
きょうそうはんじゃく/教相判釈
釈尊が悟りを開いてから涅槃に入るまでの間に説かれた多数の経典を形式・方法・順序・意味内容・教義内容等によって分類し、体系化し価値づけることをいう。教判、判教、教相、教摂ともいう。仏教経典は非常に数が多く、その内容や説き方も同一ではないが、釈尊によって説かれたものであるとするならば、そこには何らかの意図があったはずであるという考えのもと、教説の内容や説かれた順序についての体系化がなされた。これは釈尊の教えの究極を見出し位置づけるための経典解釈学ということができる。インドにおいては、時代の変遷の中で経典が編纂され成立していったが、中国へはこの成立過程の前後が無関係に伝来し漢訳された。このため、中国の仏教者は各々の立場から一代経典を体系化する必要性が生じた。教相判釈は中国仏教の大きな特色であり、中国において発達した。『四十八巻伝』五には「もし、その宗に摂して勝劣を判ぜば、互いに是非有り。…法華宗は華厳宗よりも浅しといわば、すでに法華宗の意に違せり。いかでか、押して天台宗とは言うべき。ただ華厳宗の意許りにてこそは有らめ。宗々たがいに浅深を争う。他所にて誰か定判せん」(聖典六・四三~四、法伝全一八)という法然の言葉が伝えられ、法然は各宗において勝劣・浅深を主張したならば、誰も判断することができないとしている。法然は『要義問答』において「教を簡ぶにはあらず、機を料らうなり」(聖典四・三八二/昭法全六一九)と述べ、『念仏大意』では機をはかることについて「よくよく身を計り時を計るべきなり」(聖典四・三四一/昭法全四〇五)と述べている。このことは、浄土宗の教判が教えの勝劣・浅深を分判するのではなく、衆生の能力・時代が教えと合致するか否かを意図するものであることを示している。天台で用いられている五時八教判が説法の順序・形式・内容の面から『法華経』を一代仏教の帰結とする「教えをえらぶ」教判であるのに対し、浄土宗で用いる龍樹・曇鸞の難易二道判や道綽によって示された聖浄二門判は、「機をはかる」教判であるということができる。
【参考】藤堂恭俊「法然の聖浄二門判と他力の用語例」(『法然上人研究』一、山喜房仏書林、一九八三)
【執筆者:曽根宣雄】