慈愍
提供: 新纂浄土宗大辞典
じみん/慈愍
唐・永隆元年(六八〇)—天宝七年(七四八)。慈愍三蔵は賜号であり、本名は慧日。東萊(山東省萊洲府)の人。二〇歳で具足戒を受け、インドから帰朝した義浄三蔵に遇って感銘を受け、嗣聖一九年(七〇二)に海路でインドに渡った。聖迹を巡礼して善知識を訪ね歩いたが、その辛い旅を経て現世を厭うようになり、その疑問を学者たちに問うたところ、いずれにも西方往生の教えを勧められた。その後、ガンダーラ国で観音の霊告を受けて浄土教に帰入した。開元七年(七一九)、七十余国を経てようやく長安に帰着した。帰国後は玄宗に多くの経典を勧めて、慈愍三蔵の号を受けた。その後も、常に浄土の業を勤修し、善導および少康と異時同化であると称讃された。著作に『略諸経論念仏法門往生浄土集』三巻(『浄土慈悲集』、または『往生浄土集』)があり、上巻(海印寺本・桐華寺本)のみが現存している(正蔵八五所収)。わずかに残された著作には同時代の禅宗者への批判がみられ、後世の浄土教者である承遠、法照、延寿、元照などにも多大な影響を与えた。法然は『選択集』に、中国浄土教に三流あるなかの一つに、この慈愍の流れをくむ念仏(慈愍流)を数えている(聖典三・一〇三/浄全七・八)。
【参考】小野玄妙『仏教の美術と歴史』(大蔵出版、一九三七)、伊吹敦「禅宗の登場と社会的反響—『浄土慈悲集』に見る北宗禅の活動とその反響—」(『東洋学論叢』五三、二〇〇〇)、松野瑞光「慈愍三蔵慧日の浄土教思想—禅浄戒合行説の再検討—」(浄土学四二、二〇〇五)
【執筆者:工藤量導】