大胡太郎実秀
提供: 新纂浄土宗大辞典
おおごのたろうさねひで/大胡太郎実秀
—寛元四年(一二四六)頃。上野国大胡(前橋市)の住人。法然の消息をよりどころとして往生したとされる武士。「三郎実秀」(『平家物語』元暦元〔一一八四〕・九・一二)とも「太郎実秀」(諸伝記)とも記される。おそらく源平の争乱中に惣領家を継いで、通称の三郎が太郎と称されるようになったと考えられる(『系図纂要』)。「大胡太郎」の行動は、治承四年(一一八〇)の頼朝挙兵から建久六年(一一九五)の頼朝の東大寺供養までの一五年間が浄土宗関係以外の史料で確認できる。こののち、正治元年(一一九九)頃に法然から消息を得て、『四十八巻伝』二五によれば寛元四年頃没した。この没年は『吾妻鏡』の建長二年(一二五〇)の記事に閑院宮造営の工事が「大胡太郎跡」(跡とは跡職、つまり遺産)に掛けられてきているから(三・一)、この四年前に実秀が死んでいることの裏付けとなる。推定される年齢は八〇歳くらいである。大胡氏は、藤原秀郷の末裔で小山・園田・結城氏などとともに中世の北関東に盤踞した。ただし、親鸞が「おおご・しのや・つのと、この三人は聖人根本の弟子なり」(『西方指南抄』昭法全五〇七)と記しているように、渋谷道遍・津戸三郎為守と並んで大胡氏は法然の古くからの門弟であった。大胡氏の存在は、法然からの数通の消息が与えられたことで有名である。これらは「大胡消息」として、大胡氏のみならず後世の門弟の指針とされた。現存する「大胡消息」の内容は、三心以下についてこまかに指教したものや、念仏以外の諸行を余行として厳しく退けているものなどがある。とくに後者の消息の末尾には「余行の人々ははらをたつこと」だから、「御身一つにまづよくよく往生をねが」うように記している。しかし、これらの法然の説く専修念仏は、当時上野地方に根を下ろし活動していた天台系の諸行往生論と徐々に対立を深めた。この地域における天台系の代表的存在が並榎定照等であり、法然没後に勃発した嘉禄の法難の要因ともなった。
【資料】『四十八巻伝』(聖典六)、『九巻伝』(法伝全)、『西方指南抄』(昭法全)、『系図纂要』、『吾妻鏡』
【参考】小此木輝之『中世寺院と関東武士』(青史出版、二〇〇二)
【参照項目】➡大胡消息
【執筆者:小此木輝之】