宗名争
提供: 新纂浄土宗大辞典
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しゅうみょうあらそい/宗名争
「浄土真宗」という宗名公称をめぐる東西両本願寺らと浄土宗との論争。宗名論争ともいう。江戸の後期を中心に明治初年にまで波及する。東西本願寺は一向宗、門徒宗、本願寺宗などと定まらないまま他称されてきたので、安永三年(一七七四)八月宗名を浄土真宗に統一することを幕府に提訴した。幕府が同一一月に天台宗寛永寺と浄土宗増上寺に諮問したところ、寛永寺は可としたが、増上寺は不可として、翌四年正月にその差し障りの理由を列挙した故障書を提出した。そのため寺社奉行所は同一一月に役所では一向宗と取り扱うことを定め通達した。これらについて、築地本願寺輪番から一二月に弾文が出され、加えて浅草本願寺輪番からも例証文が出され、高田専修寺、仏光寺なども同調した。さらに増上寺と東西本願寺の双方から論駁が繰り返された。これに対し奉行所も双方の優劣を付けがたく、同六年二月御吟味中ということで双方の訴えを撤回させたが、それでも収まりがつかないまま膠着状態となった。やがて同九年および翌一〇年正月浄土宗祐天寺と茶人静易の仲介で九条家預かりの手立ても講じられたが不調に終わった。その後天明八年(一七八八)正月京都の大火により東本願寺も被災し宗名論争は一時頓挫した。しかしなお、浅草光円寺宝景らは老中松平定信に直訴するなど愁訴一四度に及ぶこともあった。そしてとうとう寛政元年(一七八九)三月、問題惹起から一五年も経過しながら寺社奉行は、繁務中ですぐには沙汰できないので沙汰があるまで訴願中であることとすると言い渡して、そのまま保留状態で事を収めた。それまでの係争中には反駁書が飛び交ったが、浄土宗においては、『非禿草』や大空の『浄土真宗復真訣』、真宗においては玄智の『御宗名顕真弁』などが上梓された。そして後、維新を経て京都において問題が再燃したが、結局明治五年(一八七二)三月一四日、太政官正院の布告により一向宗は真宗と称すべきこととなった。
【資料】増上寺蔵『宗名一件記』・『浄規問弁撮要録・東西顕偽弁』、「真宗上・宗名争論」(『古事類苑』宗教部第一冊)
【参考】村上専精『真宗全史』(丙午出版社、一九一六)、辻善之助『日本仏教史』九(岩波書店、一九七〇)、真宗典籍刊行会編「大谷派学事史」(『続真宗大系』二〇、国書刊行会、一九九四)
【執筆者:野村恒道】