宗乗・余乗
提供: 新纂浄土宗大辞典
しゅうじょう・よじょう/宗乗・余乗
宗乗とは数ある仏教の教えのなかで、自らが信じる教えをいう。宗義・要義ともいう。自らの信ずる教義や歴史を宗乗といい、他宗の教義や歴史を余乗という。宗とは自分にとって最高の教えであり、乗とは大乗・小乗ともいう乗物のことで、迷いの世界から悟りの世界へみちびいていく乗物という意味である。宗乗・余乗はもとは禅宗で用いられていたが、やがて各宗それぞれ自宗の教学にこの用語を用いるようになった。法然は宗について「宗の名を立つる事は仏の説にあらず。みずからこころざすところの経教につきて教うる義を解り究めて宗の名をば判ずる事なり。諸宗の習いみなもてかくのごとし。今浄土宗の名を立つる事は浄土の正依経につきて往生極楽の義を解り究めておわします先達の、宗の名をば立てたまえるなり」(『十二問答』聖典四・四三三)といい、宗乗は仏説ではなく人師の説であって、浄土の経典について凡入報土の教えを領解しきわめた祖師の説にもとづくものと説き示している。この宗乗を広義にいう場合は、この根本要義を時代に即して組織体系化した教義をも宗乗ということもある。加えて余乗という場合、自宗以外の仏教の教えをいうことがある。唯識(思想)がたんに法相の教義としてではなく、広く仏教の基礎学問として学ばれてきたことも余乗という。とくに十八檀林から浄土宗の学制制度が改革されて、高等予科では内典と普通学として哲学・国語・漢文などを学び、高等本科では俱舎・唯識・華厳・天台などを学んだ。唯識三年俱舎八年という用語も通仏教・余乗を学んだ名残りであろう。浄土宗でいえば、法然の浄土教の教えを自らの救いの乗物としていくのが宗乗であり、法然の教えを知るための一般浄土教の教義や歴史も、広く宗乗と呼ばれるようになり、他宗のそれを余乗と呼ぶようになったといえよう。
【執筆者:髙橋弘次】