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佐原窿応

提供: 新纂浄土宗大辞典

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さはらりゅうおう/佐原窿応

文久三年(一八六三)一月二五日—昭和六年(一九三一)八月一〇日。同阿。号は桑隠。時宗一向派大本山(現・浄土宗本山蓮華寺四九代貫主。羽前国置賜おきたま郡福沢村(現・山形県東置賜郡高畠町福沢)で金子幸右衛門の三男として生まれる。幼名辰之助。明治七年(一八七四)同国金瓶かなかめ宝泉寺佐原隆明について出家。のち隆明の相続人となる。同九年時宗一向派大本山蓮華寺四四代同阿弁良より宗脈戒脈相承。同一六年宝泉寺に晋董大本山蓮華寺役者に就任。同一七年、一遍遊行派中心の時宗は、政府の教規宗制整備の指令を受け、一向派を無視した新宗制を定めた。江戸幕府の宗教統制で時宗に属していた一向派は、一遍とは繫がりのない一向を祖としていたため、これに反対、同二四年窿応らを請願委員に選び、一向派の独立を政府に願い出た。しかし受理されず、窿応は遊行派側と度々交渉を重ねて、同三六年、時宗の中で大本山蓮華寺は別に宗規を定めることが認められた。大正八年(一九一九)蓮華寺住職に就任、昭和六年蓮華寺にて遷化した。宝泉寺のそばで生まれ育った歌人斎藤茂吉は窿応を慕い多くの歌を詠んでいる。


【参考】大橋俊雄『番場時衆のあゆみ』(浄土宗史研究会、一九六三)、『佐原窿応上人』(一向寺、一九九四)、『明治期一向派史料』(同、一九九三)


【執筆者:竹内真道】