共生会
提供: 新纂浄土宗大辞典
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きょうせいかい/共生会
椎尾弁匡の「共生」思想の啓蒙や関連する社会的実践活動を支えた団体。浄土宗僧侶が中心的存在ではあったが、その活動内容は、浄土宗の枠を超えて行われた新しい仏教運動の一つと捉えることができる。組織としての共生会は、大正一一年(一九二二)に行われた第一回共生結衆がその運動の具体的な始まりであったが、その着想は数年前に遡ることができる。その発端については、第一次世界大戦を契機とした急激な好景気による国民一般の奢侈と、それとは裏腹の社会主義、労働運動等を通じて煽られる社会不安、思想的動揺等を背景に、大正六年(一九一七)一二月二八日、「例月のごとく二灯会に出席したとき、あるお方より大正天皇は日本の現状をことのほかお悩み遊ばされたもうていることを承った。…誠に畏れ多き御悩あらせられることを洩れ承って、赤子として大いに考えねばならぬと深く決するところがあ」り、また翌七年に浄土宗管長山下現有の伊勢大廟ならびに明治天皇の桃山御陵への参拝を機とする国民覚醒運動としての時局特別伝道の開始に伴い、「まず一宗をあげて時局覚醒の運動に着手し、五条七件の要目に基づき正義、業務、時間、節約等の項目について仏教信仰上または国民生活上からいかに処すべきかについて極力覚醒に努力いたしました。これが共生運動の起源といわれるべきものであります」(椎尾弁匡『共生の基調』〔『椎尾弁匡選集』九、山喜房仏書林、一九七三〕、三一二~三一三頁)と椎尾自身が述べている。その後、芝中学校寄宿舎講堂興国殿における仏教の連続講演会、布教師の伝道指導の場である白明会の例会、二灯会の運動、本郷十方寺において行われた「正態の浄土教」連続講演会等の「共生結衆」の準備運動と見るべき様々な活動を経て、同一一年春には「共生」という会名が決まり第一回共生結衆が開催された。同一二年五月一日には雑誌『共生』が創刊され、昭和三年(一九二八)には『ともいき』も合わせて発刊、また、同六年には財団法人となって積極的な活動を展開したが、第二次世界大戦中は雑誌の発行や結衆の開催など制約を受けた。戦後は組織を立て直し、同四六年の椎尾入寂後も雑誌『共生』の発行を継続するなど、椎尾の薫陶を受けた人々や在家の信者層の協力によって、平成四年(一九九二)まで同会の活動は続けられた。
【参考】『椎尾弁匡選集』(山喜房仏書林、一九七三)、浄土宗総合研究所仏教福祉研究会編『浄土宗の教えと福祉実践』(ノンブル社、二〇一二)
【執筆者:藤森雄介】