関東浄土宗法度
提供: 新纂浄土宗大辞典
かんとうじょうどしゅうはっと/関東浄土宗法度
慶長二年(一五九七)九月二五日、知恩院二九世尊照が関東の檀林寺院に出した法度。正しくは「関東諸寺家掟之事」といわれるが、元和元年(一六一五)七月に徳川家康から増上寺・知恩院・伝通院に出された「浄土宗諸法度」と区別をするために関東浄土宗法度といわれる。この法度は現在鎌倉光明寺と増上寺に残っており、本末の統制、学侶の監督、出世の手続き、訴訟の禁止、法談の取締りなど五箇条の規約を定めている。光明寺と増上寺の同法度の本文は全く同一であるが、光明寺の同法度の宛所は「関東本山光明寺住持」とあり、増上寺のそれは「諸談林住持」となっている。これらの宛所の書き方をみると、当時の関東浄土宗教団は鎌倉光明寺を関東本山として、その下に増上寺等の諸談林が存在していたことがわかる。諸談林とあるだけで具体的な寺院数は明確でないが、増上寺のほかに川越蓮馨寺・岩槻浄国寺・飯沼弘経寺・生実大巌寺・鴻巣勝願寺・小金東漸寺・瓜連常福寺などが檀林寺院のなかに含まれていたものと思われる。これらはいずれも中世以来の有力寺院であり、かつての談義所・談場といわれた学問所がそのまま檀林へと名称を変えていったものと思われる。これらの関東の談林寺院は法系的な交流はあるが、寺院の個々は独立し、まだ近世的な教団としての有機的なまとまりはなかった。そこで一宗を統制する必要上、関東浄土宗法度が出されたのであろう。従来まとまりのなかった関東の諸談林を総本山知恩院を中心に、関東の首位に光明寺をおいて本山とし、その下に由緒ある諸談林をおき、さらに一般寺院をなんらかの形でこの下につけるという本末関係を制定し、一元的な教団組織の確立をめざしたものであることがわかる。関東浄土宗法度は徳川家康の宗教統制策の上でみると、家康が幕府を開くのが慶長八年(一六〇三)であるから、この法度が出された慶長二年九月は幕府を開く以前であり、しかも家康の関東移封後最初に出された宗教統制の法度である。このように早くから浄土宗寺院が家康と交渉をもっていたことが、江戸幕府草創後、積極的な保護をうけた理由であろう。
【参考】宇高良哲「関東浄土宗法度の成立過程について」(『日本歴史』二五七、一九六九)
【執筆者:宇高良哲】