一六世紀頃、生没年不明。行蓮社団誉。存応の弟子。江戸の古刹、橋場法源寺(現・帰命山薬王無量院保元寺。江戸期に保元寺を法源寺と号したが、大正時代に寺号を戻す)の住職となり、のち駿河国宝台院の住職となった。天正一七年(一五八九)に、二代将軍となった徳川秀忠の生母西郷局(徳川家康の側室お愛の方)を葬った宝台院の住職を拝命していることから、師の存応や幕府からの信頼も厚かったことが窺えるが、履歴は明らかでない。
【資料】『総系譜』中(浄全一九)、『三縁山志』七(浄全一九)、『御府内寺社備考』三(名著出版、一九八六)
【執筆者:伊藤弘道】