仏向寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
ぶっこうじ/仏向寺
山形県天童市小路。宝樹山称名院。山形教区№三九。開山は一向俊聖、実質的基盤を確立したのは一向の弟子行蓮。開基は源頼直。弘安元年(一二七八)天童城主源頼泰が、一向に帰依した父頼直の命により成生庄に七堂伽藍を建立。永和元年(一三七五)里見氏が舞鶴山の天童城に入り天童氏を名のった頃、舞鶴山麓の現在地に移転された。平成八年(一九九六)、仏向寺がもとあった高野坊遺跡(天童市成生地区大字大清水字高野坊)の発掘で、「一向義空菩薩…応長元(一三一一)辛亥…大願主行蓮 御庄成生」や「応長元暦…廿七年忌」と記された多数の墨書礫が出土、一向の年忌を弟子の行蓮が勤めたことがわかり、一向とその弟子についての貴重な資料となった。戦国時代は僧兵を有し、天正一二年(一五八四)、天童頼久と山形城主最上義光との合戦では、天童城の落城とともに災焼したが、後に再建された。一向を祖とする一向衆教団において、仏向寺は近江国番場の蓮華寺とともに二大中心寺院となり、天童派の本寺になっていたが、江戸時代初期、幕府の宗教統制が進む中、時宗の一派に組み入れられた。貞享三年(一六八六)蓮華寺との本末諍論で、幕府は蓮華寺を時宗一向派惣本寺とし仏向寺をその末寺と裁許した。以後、仏向寺は一向派の中本寺になっていった。文化年間(一八〇四—一八一八)頃火災で堂宇焼失したが、文政八年(一八二五)本堂再建、以後着々と復興された。昭和一五年(一九四〇)一教団に一伝灯のみとする「宗教団体法」が施行され、一遍と関連のない一向派は時宗から独立しようとしたが政府に認められず、同一七年一向が良忠の弟子であったことから文部省了解の上、浄土宗に合流、仏向寺も浄土宗に帰属した。毎年開山忌に一向派僧侶によって行われる踊躍念仏は浄土宗宗宝に指定されている。
【参考】大橋俊雄『番場時衆のあゆみ』(浄土宗史研究会、一九六三)、『浄土宗本山蓮華寺史料』(本山蓮華寺、一九八三)、『一向上人の御伝集成』(同、一九八六)、『成生庄と一向上人—中世の念仏信仰—』(天童市立旧東村山郡役所資料館、一九九七)
【執筆者:竹内真道】