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道昞

提供: 新纂浄土宗大辞典

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どうへい/道昞

東晋・興寧三年(三六五)—劉宋・元嘉一二年(四三五)。俗姓は陳氏、頴川(現・河南省許昌市)の出身で、幼くして出家廬山慧遠弟子となり、仏教の経律や老荘の学に明るく、念仏三昧を修して怠ることがなかった。義熙一四年(四一八)には予章の太守王虔の要請によって慧遠亡きあとの廬山の主となった。臨終には多くの者が集まり念仏する中、端坐したまま示寂したという。世寿七一歳。なお、戒珠の『浄土往生伝』序に「東晋の末、遠師は跡を廬阜に憩う。其の時、意を同じくする法師釈道炳・竺道生・仏陀耶舎、在家の英豪に洎びては劉遺民・雷次宗・周続之等の一百二十三人、方外の遊を締結す。風を希いて来集す」(続浄一六・一三下正蔵五一・一〇八下)とある。この文中の釈道炳と同一人物と考えられるが、南宋の志磐仏祖統紀』二六の十八賢伝になってはじめて正伝として立伝されているため、慎重に扱う必要がある。


【資料】『浄土往生伝』(続浄一六)、『仏祖統紀』二六(正蔵四九)、『東林十八高賢伝』(続蔵一三五)


【参考】松本文三郎「東林十八高賢伝の研究」(『大谷学報』八六、一九四二)


【執筆者:齊藤隆信】