宗学
提供: 新纂浄土宗大辞典
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しゅうがく/宗学
自らが属する教団の宗義に関する学問・研究のこと。近時は一般仏教学(余乗)に対して宗学(宗乗)という。浄土宗においては浄土宗学と呼び、宗祖法然の信仰体験にもとづいた浄土教の教えと、その教えが説き示されている経典・論疏を通して、宗祖の信仰に接していくものである。明治以降、ヨーロッパ・アメリカの宗教に関する科学的研究の影響を受けて、一般仏教学では経典の成立史をはじめとして、文献学的な研究が急速に進んだ。宗学も学問としてその研究分野や研究方法が論及され、とくに神学(theology)の影響を受けてか、理論宗学・歴史宗学・実践宗学といった三面から組織的に研究が進められるようになった。このことは法然の思想研究に先立って、二祖(善導・法然)三代(法然・聖光・良忠)の教学を、宗祖からの教義伝承にしたがって学んでいくという宗学の出発点が成立したと指摘できよう。
宗学という学問が、現在の学問サークルのなかでいかに位置づけられるのか。岸本英夫はワッハ(Joahim Wach 一八九三—一九五五)の神学と宗教学との違いの指摘を受けて、宗教に関わる研究のあり方に、科学的研究と規範的研究の二つのあり方を明らかにしている。科学的研究とは宗教現象が「いかにあるか」という客観的な研究のあり方で、現象的実証的であり、価値中立的である。この範疇の学問分野として宗教文化学・宗教心理学・宗教歴史学などがあげられるが、仏教学に関するものとしては、文献学的研究や歴史的研究などがこれに属する。つぎの規範的研究とは、宗教そのものが「いかにあるべきか」を問う学問であり、そのあり方は主体的な研究である。自らの信仰・実践に関わる研究であり、人間存在の質的な問題に関わる求道的な学問である。自らの宗教(信仰)が「いかにあるべきか」という規範は、絶対者(神・仏)との関わりにおける宗教経験・宗教事実を取り扱う学問であり、人間の主体的な内面における絶対者からの方向づけを規範とする学問といえる。この二つの学問研究にあって、宗学という学問は、規範的研究という領域に位置し、自らの宗教が「いかにあるべきか」という主体的な実践が先行する学問であるといえる。これは自らの主体が完全に法然の教えの中にあるという宗教状況(situation)の自覚が要請されているといえる。
法然は主著『選択集』の巻頭に「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為先」(聖典三・九七)と認めており、また最後の遺訓『一枚起請文』は「只一向に念仏すべし」と結ばれている。これらのことばのなかに、すでに宗学の規範的内容をうかがうことができる。前者の『選択集』は単に念仏の要文を集めたというものでなく、法然自らの宗教的確信にもとづいて、念仏の教えを論理的に体系づけた著書であり、巻頭の一四文字は最後に自らが認めたと伝え、後者の『一枚起請文』が法然の死の二日前に書かれたということは、法然自らの決定的な宗教的確信が「只一向に念仏すべし」ということばにあることを示しており、ここに宗学の規範が示されているといえる。法然の主著における巻頭のことば、最後の遺訓のことばが、単に法然自らの立場においてではなく、絶対者(阿弥陀仏)との関わり合い(念仏三昧)のもとに決定づけられていることは明らかであり、現実の人間とその生活している世界を見届けたうえで、時機相応・万人救済の教えを絶対者の聖意(阿弥陀仏の本願)のなかに見出している。宗学の「いかにあるべきか」の規範根拠は、絶対者阿弥陀仏の本願にあるといえる。
今日における宗学は、伝統宗学を中心とした浄土宗史、浄土教史などが属する歴史宗学、時代の諸思想とその状況をふまえた解釈学・教典論などが属する理論宗学、教化論・教団論などが属する実践宗学とに分けられ、さらにこれらを組織づけていかなければならない。特に今日の宗学の目的は、法然の教えをもって他の諸思想(世界のあらゆる宗教・思想)と対応し、その教えのなかに今日的価値を見出すべく価値体系をうち立てることにあるといっても過言ではない。その立場は、理論宗学に代表されるといってよい。宗学の本来のあり方は、今日的であり、しかも動的な様態を示すものである。しかし今なお今日的宗学、宗学の現代的理解、宗学の時代即応などが課題にされるということは、いわば宗学を学ぶ者達が真に主体的な信仰的直接性をもたず、今日的でないことを反省していると解される。こうした現実に立脚していうならば、宗学に、現代に対する自己自身のあらたな主体的決断が要請されており、時代の流れの苦悩のなかから生まれる信仰的決断による宗学的行為が望まれているといえる。
こうした宗学の今日的あり方においては、宗学が学問の領域(サークル)に属するものであるといっても、単に「学問のための学問」といった量的な研究の世界に留まるものではない。宗学はいわばその時代の人間存在の質的な転換を求める宗教的学問行為である。いいかえれば、宗学は学問の領域に属しながら、しかも学問の領域を出ることを常とする。つまり宗学は学問の領域にありながら、そこに留まることなく、実践教化の領域へと向かうと同時に、また主体的な実践的立場から学問の領域に入るといった性格をもっているといえる。宗学が学問的行為としての限界を、つねに超えていくところに宗学の本来性が発揮される。
【参考】峰島旭雄「宗学と神学」(『仏教論叢』一一、一二、一五、一六、一七、浄土宗教学院、一九六六、一九六八、一九七一、一九七二、一九七三)、P. Tillich:Systematic Theology. vol I Univ. of Chicago Press, 1951、髙橋弘次「第六部—浄土宗学の諸問題」(『改版増補・法然浄土教の諸問題』山喜房仏書林、二〇〇三)
【執筆者:髙橋弘次】