寺檀制度
提供: 新纂浄土宗大辞典
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じだんせいど/寺檀制度
江戸時代以降、寺院が檀家の葬祭供養を独占的にとり行うことを条件に、寺と檀家の間にとり結ばれた関係をいう。檀家制度ともいう。寺檀制度が成立する契機は、江戸幕府のキリスト教弾圧政策に際し寺院が手をかしたことにある。寺檀制度の成立は早いところで寛永一二年(一六三五)、全国的には島原の乱が終結する同一五年頃である。幕府は全国の寺院に対し、キリシタンでない者には住職がその身分を保証する寺請証文を提出するよう命じた。これを契機に寺院は周辺の人々を自坊の檀家として固定することに成功した。これを寺請制度と呼んでいる。その後、幕府のキリシタン弾圧政策の強化とともに檀家に対する寺の権限も徐々に増大していった。万治二年(一六五九)・寛文二年(一六六二)の両度の幕法で、キリシタン改の役割を檀那寺の責任とし、その権限はさらに強化された。寛文五年、天領での各村単位の宗門人別帳作成の折には檀那寺が個人ごとに請判をすることになり、同時に自分の寺に所属する檀家の書上を領主に提出することが義務づけられた。貞享四年(一六八七)「切支丹類属戸籍帳」提出の布達では切支丹類属人(キリシタンの親類)の監視も檀那寺の義務となった。また同年の幕法では檀家に対して檀那寺への参詣、父母の忌日の法要、寺への付け届けなどが義務として明示された。これらの行為を拒否することは檀家からはずされ、キリシタンのレッテルを貼られて処罰されることを意味した。このほか檀家は寺院伽藍新築・改築費用の負担、講金・祠堂金・本山上納金などさまざまな名目での経済的負担を強いられることになっていく。もちろん離檀することや寺替えをすることは寺院側から厳しく禁止されており、檀家の側から寺を選択する権限はなかったのである。つまり江戸時代の檀家制度は寺が檀家を完全に人身支配した制度であり、檀家は寺の経営を支える組織として組みこまれたものであり、磐石の体制として作り上げられた。
【参考】圭室文雄『日本仏教史 近世』(吉川弘文館、一九八七)
【執筆者:宇高良哲】