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含牛

提供: 新纂浄土宗大辞典

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がんぎゅう/含牛

天文二〇年(一五五一)—寛永七年(一六三〇)一二月八日。含岌、厳岌、含笈とも記す。源蓮社秀誉頑石。俗姓藤原氏、相模国鎌倉の人。道誉貞把について出家し、のち牛秀に嗣法して滝山大善寺二世となる。次いで鎌倉光明寺の幹事(一説に住職という)となったが、辞山してのちに諸国を遍歴し、大津の華階寺、大坂の大通寺に暫く居し、同地に西往寺開山。のちに京都に上り、四条寺町西念寺を再興し、大宮高辻に西往寺開山。さらに五条下寺町上徳寺三世となり、同寺にて八〇歳(一説に七九歳)で寂す。かつて鎌倉光明寺の幹事をつとめていた際、末山と折り合いが悪く、門外不出の伝書を携えて上洛し、西往寺において自像を造りその腹内に伝書を納めて寂した。そのため光明寺の古伝法は断絶し、円頓戒が衰微して布薩戒が隆盛した。のちに像中の伝書義山が取り出したという。


【資料】『総系譜』上(浄全一九)、了吟『浄土布薩戒授法目録考』(続浄一三)、『略伝集』(浄全一八)


【参考】石橋誡道「伝法沿革」(『摩訶衍』一五、一九三五)、三田全信「浄土宗伝法史上の諸問題」(『浄土宗史の新研究』隆文館、一九七一)、恵谷隆戒「近世浄土宗伝法史について」(『浄土教の新研究』山喜房仏書林、一九七六)


【執筆者:原口弘之】