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開宗の文

提供: 新纂浄土宗大辞典

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かいしゅうのもん/開宗の文

法然専修念仏開眼浄土宗をうち立てる機縁となった要文。善導観経疏散善義の一文、「一心に専ら弥陀名号を念じて行住坐臥に、時節の久近を問わず。念念に捨てざる者、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に」(聖典二・二九四/浄全二・五八下)のこと。全ての人々が救われる道を求め、経蔵に納められた一切の経典・書物を幾度もひもといていた法然が、その中で『往生要集』の説示を契機として注目したのが善導の『観経疏』であり、とりわけ懇切に拝読すること三遍、この一文に出会い、ついに自身のような凡夫浄土往生が叶えられるとの確信を得た。法然は、とくに末尾の「順彼仏願故(かの仏の願に順ずるが故に)」という五文字を重視し、そこに凡夫報土往生し得る道理を見出したのである。この善導の釈文によってこれまでの仏教界の常識を覆す、低下の凡夫が最易の念仏行によって最上の報土西方極楽浄土)に往生できる、という論理を確立するに至った。聖光は『授手印』において法然の述懐を「上人の云く、この文を見得ての後は、年来所修の雑行を捨てて、一向専修の身と成るなり」(聖典五・二二七/浄全一〇・二下)と紹介し、この一文との遭遇によって法然専修念仏一行に目覚めたことを述べており、善導のこの一文こそが「開宗の文」であることを示している。こうした経緯から、開宗の文の最後の一文字をとって法然のことを故上人と呼称するようにもなったという。従来、開宗の文を上記「一心専念の文」とせず、「付属の文」すなわち「上来定散両門の益を説きたまうといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」(聖典二・三二三~四/浄全二・七一下)とする説もある。しかし、この文は釈尊が主格となっているところから、釈尊出世の本懐を提示し、一代仏教中の本願念仏の位置づけを明確にすることで他宗に対して開宗を宣言した一文ととらえるべきである。


【参考】服部英淳「浄土開宗の文」(『浄土教思想論』山喜房仏書林、一九七四)、林田康順「開宗」(『布教・教化指針』浄土宗、一九九九)


【参照項目】➡一心専念の文故上人


【執筆者:渋谷康悦】