良純法親王
提供: 新纂浄土宗大辞典
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りょうじゅんほっしんのう/良純法親王
慶長九年(一六〇四)三月二九日—寛文九年(一六六九)八月一日。無礙光院宮専蓮社行誉心阿自在。知恩院門跡一世。後陽成天皇第八皇子、八宮と称す。母は庭田大納言源重通の息女大典侍源具子。慶長一二年(一六〇七)知恩院二九世満誉尊照在職のとき、徳川家康より宮門跡開創が奏請され後陽成天皇がこれを直ちに勅許した結果、八宮が知恩院門跡と定められた。同一九年九月二二日門跡に列せられ、同一二月には親王宣下があり直輔の御名を賜る。元和元年(一六一五)に徳川家康の猶子となる。これより以後、門跡は将軍の猶子となるのが慣例となっている。元和五年(一六一九)に尊照を戒師として出家、良純法親王と改める。法親王は宮門跡のみに安んずることなく、寺務職の掌握、皇政の回復、反幕の気風があったので、院内および幕府の忌憚に触れ、寛永二〇年(一六四三)一一月甲斐国天目山に幽閉される。万治二年(一六五九)六月勅免によって帰洛し、泉涌寺内新善光寺に住す。その後、寛文四年(一六六四)四月に復飾し以心庵と号す新居を北野に構える。同九年八月一日に薨去、同三日泉涌寺に葬られる。明和五年(一七六八)八月、一〇〇回忌にあたり無礙光院宮専蓮社行誉心阿自在良純大和尚と贈奉される。
【参考】井川定慶『知恩院史』(知恩院、一九三七)、『華頂誌要』(浄全一九)
【執筆者:伊藤弘道】