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芳井教岸

提供: 新纂浄土宗大辞典

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よしいきょうがん/芳井教岸

明治三年(一八七〇)三月二一日—昭和二一年(一九四六)三月一七日。光蓮社道誉闡阿自在。金戒光明寺六五世。旧彦根藩士の宮川善兵衛の四男として生まれ、明治一四年(一八八一)滋賀県蒲生郡福生寺住職籏忍教はたにんきょう弟子となって出家得度。師籍を次ぎ籏姓を名乗るが、金沢浄安寺住職を経て、京都大蓮寺住職となるとき、芳井家に入籍した。その間、大本山金戒光明寺執事長、同顧問を歴任した。任期中は、昭和九年(一九三四)に全焼した同本山大殿の復興に尽力し、第二次世界大戦中の同一九年四月一五日に落成。翌二〇年には、同本山法主望月信亨知恩院上任をうけ、同年三月二八日、後任に選ばれた。同本山全焼時、息子に「真筆一枚起請文が焼失していたら帰ってこない」と言葉を残し猛毒を持って出勤したエピソードがある。幸い真筆一枚起請文は、同本山の宝物として現存している。絵本『京の走り坊さん』(文・東義久、絵・無以虚風、クレオ、一九九五)のモデルとなった、走り坊さん籏玄教芳井教岸の子。


【執筆者:芳井教哉】